ヤコブの手紙講解メッセージ(211927「御言葉を生きる」

 

 御言葉を行なう人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。122

 

 「新旧合わさる時」ヤコブは両者の狭間で、キリストを信じる者として生きるとはどういうことかを指し示していきました。そして、その教えがそのまま問題を解決していくことになりました。その最中に培った「初穂とならせていただく」というヤコブの信仰は、彼のキリストを思う気持ちの現れでした。

このヤコブの手紙は、キリストを信じる者として生きるために、また初穂とならせていただくために、何が必要なのかを書き綴ったものなのです。

 そのことを心に留めて、今日の箇所を学んでいきましょう。

 

 この白浜の教会にとって、世の人はこの建物を見て「あそこに教会がある」というでしょう。しかし、本来、教会とは建物ではありませんでした。

 ヤコブたちが活躍した時代、教会とは、クリスチャンが集まるその集まりこそが教会だったのです。

 彼らは、ある時はユダヤ教の会堂に集まりました。また、ある地域では川原に集まりました。そして、最終的には、あるキリストを信じる者の家が集まりの場となっていきました。いわゆる家の教会です。しかし、非常事態の時にはそれだけではありませんでした。迫害が激しさを増した時、クリスチャンたちは礼拝するために洞穴に集まったこともあったのです。

 だから私たちは、集まる場所として建物が与えられていることに感謝しなければなりません。その上で、教会の本質を知らなければなりません。

キリストのからだである教会とは、私たち一人一人の集まりのことなのです。

そして、Tコリント316に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とあるように、私たち一人一人が、神の神殿であり、この小さな神の神殿である私たち一人一人の集まりが教会なのです。だから、私たちの心という中心にいてくださる神様は、私たちの集まりにおいてもその中心にいてくださいます。神様が中心におられるその集まりこそが教会なのです。しかし、この教会の本質を知って考えていただきたいのです。

集まった一人一人に不和が生じたとしたら、それは中心におられる神様の存在をないがしろにしていると思いませんか? だとしたら教会ではなくなってしまうと思いませんか?

 ヤコブの時代に不和が起きた問題はまさにそういったギリギリの選択を迫られたものだったのです。内容としては、新旧の仲間意識や、感覚の違い、それから生活習慣の違いからお互いを裁いてしまうとういう些細なことに感じてしまうものでしたが、教会が神様のものとして建て上げられるためには、大変大きな問題となったのです。ちょっとした誰にでもあるような違いから起こった問題だけに、一つ間違えば、それでもキリストの教えを信じているのか!それでも教会なのか!と反発を招きかねない問題だったのです。しかし、これは何もヤコブの時代だけの問題ではありません。私たちのうちにも起こりうる問題ではないでしょうか?

 例えば、保守的な人もいれば、改革的な人もいるわけで、どうしてもお互いの意見は違ったものになるはずです。また、慎重な人もいれば、大胆な人もいるわけで、この場合もどうしてもお互いの意見は合わないでしょう。これらの違いからも、不和の問題は、私たちの間にも起こりうることなのです。

 不和が生じて、私たち誰もが一番困るのはどういう時でしょうか?

どちらも正論を言っていて、どちらの意見も分かる時だと思いませんか?

 教会の中に不和が起こる時、たいていの場合、どちらにも悪意があるわけではないのです。どちらも教会を愛し、どちらも教会を良くしたいと思っているのです。だからこそ、真剣にぶつかり合って、互いに譲らず後戻りできなくなる時があるのだと思います。

 なぜ後戻りできなくなるのかというと、それは、真剣なやり取りの中でお互いに感情的になり裁き合ってしまうからではないでしょうか。そうなると、お互いに傷ついて、関係を修復しづらくなると思いませんか。また、お互いが御言葉を盾に、自分の立場を主張し始めたらどうしようもない状態です。

 だからヤコブも、19節「わたしの愛する兄弟たちよ、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」と言っているのです。

 確かに怒りに任せて一方的に話しても、相手との間にある溝を広げてしまうだけです。反対に相手の怒りを買い、お互いに溝を広げることにもなってしまいます。ということは、怒りのうちに話しても、相手には本当に伝えたかったことがあまり伝わらないということです。たとえ、本当に神様から示されて伝えなければならなかったとしても、怒りがその働きを妨げてしまうことがあるのです。

 そしてこう続けるのです。22節「みことばを行なう人になりなさい。」

 この言葉の前にこうあります。21節「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心の植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」

 皆さん、厳粛に受け止めていただきたい。あらゆる「汚れ」とあふれるほどの「悪」・・・。自らのうちにあらゆる汚れとあふれるほどの悪があると認めていただけますか?自分のうちにあふれるほど悪が満ちているなんて考えたくないのが正直な気持ちでしょう。しかし、時々自分の心の暗やみに気付くことってあるでしょう。私たちはキリストの命を代価としなければならないほどの罪人だったのです。

 そんな私たちの心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。そしてその御言葉を行なう人になりなさい。言うなれば、ヤコブは御言葉を道しるべとしなさいと語っているのです。

 教会に不和の問題が起こった時、または何かお互いの違いから問題を感じた時、皆さんにとって思い出す御言葉は何でしょうか?

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか・・・。」マタイ71〜、ルカ6:37〜 

 「互いに愛し合いなさい」多数ある

 そして、主がご存知だと信じるのではないでしょうか。また、

 「あなたたちは肉にしたがって裁くが、わたしは誰をも裁かない」ヨハネ815

 「わたしを裁くのは主なのです」Tコリント44

 「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」ヤコブ411

 裁き主は自分ではなく神様であることを知っているのではないでしょうか。

 ならば、私たちに任されていることは互いに裁き合うことではなく愛し合うことだと見えてくるでしょう。黙示録でエフェソの教会に対して「初めの愛から離れてしまった」と語られていることを思い出します。エフェソは本物と偽者をしっかり見抜いたことがほめられている一方で、愛を忘れてしまったことが指摘されているのです。

 ヤコブが言っていることは、これらの心に植え付けられた御言葉を受け入れ、その御言葉を行なう人になれということなのです。そうすれば、お互いの内にある違いや問題を乗り越えて、神様を中心とした家族という関係を築いていくことができると言っているのです。そして、たとえ問題を感じたことを伝えなければならないとしても、怒りは神の義を実現することができないことを覚えて、愛する思いと態度を大切にしていくことができるというのです。

 ここに私たちの個人個人のチャレンジがあります。「御言葉を行なう人になる」というチャレンジがあるのです。心の中に葛藤が生まれます。言うべきか言わないべきか、優しく話すことができるかどうか、怒りを静められるかどうか、これは個人的な問題です。自分と神様との関係で解決しなければならない問題なのです。

 ここで、ヤコブの論点も対人関係から、個人的な問題へと移っています。と言うか、ヤコブは、いつも全体を見渡しながら、個人個人に目を留めて教えていると思いませんか?

 それはなぜか?

 それは、対人関係のほとんどが、自分の内側の問題と密接に関わっているからなのです。また信仰そのものが、個人個人に与えられるものだからです。

確かに、キリストのからだなる教会には、基本的な教理をはじめヴィジョンなど全体として一つ与えられている信仰があります。しかし、その全体の信仰は、個々の一人一人の理解と信仰が集まって初めて機能し始め力となるものではないでしょうか。だから一人一人の存在が、一人一人の信仰が大切なのです。だから、ヤコブは個人個人の問題として信仰のチャレンジをしたのです。

 26節「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」

 言い方を変えれば、御言葉を受け入れ信じても行いが伴わないなら、あなた個人の信仰は何の意味も何の力もないということです。全体に与える影響はプラスではなく、かえってマイナスのものとなる可能性もあるということです。厳しい言葉ですが、実際その通りだと思います。教えられたことを、教えられた通りにするかしないかは、その人の生活に大きな違いを生み出します。

 この26節の御言葉は、1925節までの教えを要約したものだと言ってもいいでしょう。舌を制する行いを私たちは信仰によって果たしていくのです。神様との間で解決していくのです。

 また当時、愛することを表す一番の具体的な例が挙げられています。

 27節「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」と・・・。

 みなしごや、やもめが困っている時に世話をすること

 世の汚れに染まらないこと

 別にこの二つを分けて考える必要はありません。

 キリストは「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つの愛を教えました。この二つの愛で律法は完全に全うされると教えました。

 ヤコブは25節でこう言っています。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一身に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行なう人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」と・・・。

 つまり、愛によって律法は完全に全うされると教えられたキリストに従い、信仰持って愛に生きることこそ求められているんだということです。愛は結びの帯として完全なものだと聖書にあるとおりです。キリストの体なる教会を内側でしっかりと結び合わせているのは、この信仰を伴う愛の心なのです。

 愛とは、相手の最善を願い、その相手が最善に至るために協力し、犠牲を払って支え、相手の最善が実現した時、共にいて喜ぶその心だと言った人がいますが、私たちは兄弟姉妹に対してその心を持っていますか?このように御言葉に励まされ、御言葉に戒められ、確かな愛を心に抱いて励みましょう。