ヨハネの第一の手紙講解メッセージ(7)4:7〜21「ここに愛があります」
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:10
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。4:16
この世でわたしたちもイエスのようであるからです。4:17
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。4:18
神様の存在を感じる時ってどんな時ですか?皆さんはどんな時に神様を身近に感じているでしょうか?
メッセージを聞いている時でしょうか?聖書を読んでいる時でしょうか?また、祈っているときはどうでしょうか?生活の中で祈りが聞かれた時など神様の助けや祝福を感じたりするでしょうか?
人を愛そうとする自分に気付いた時はどうでしょうか?
兄弟姉妹と呼べる関係を教会の中で味わっている時はどうでしょうか?
罪に対して自らを律することのできた時はどうでしょうか?
このような時、神様のことを思い出している自分がいないでしょうか?
12節「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるているのです。」
ヨハネは、愛を通して神様の存在を感じているのです。
7〜8節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
私たちは教会の中で、神様にある関係の中で、神様のすばらしさや、その愛の豊かさを味わうことができるのです。もっと言えば、神様抜きでは教会は崩れてしまい、人と人との間に愛し合う関係も建て上げることはできないのです。なぜなら本物の愛は神様から注がれているからです。
人間は理性的な生き物です。道徳的な感覚を持っています。だから、「こうしなければならない」という理想を持って生きています。愛についても、世の中の常識として大切なものの一つと考えられています。しかし、この愛を、神様から離れて働かせている人間には限界があるのです。
「汝の敵を愛せよ」「迫害するもののために祈れ」マタイ5:44
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。」マタイ5:38〜42
これらすべてを「あなたがたの天の父の子となるためにしなさい。」マタイ5:45と言われているのです。卓上の理論ではなく、実践の中でこの愛で人を愛そうと思ったら、心に痛みが伴うでしょう。押しつぶされるほどの苦しみが伴うでしょう。しかし、心を強くして愛に立つことができるでしょうか?聖書はこう続けています。
マタイ5:46〜「自分を愛してくる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
道徳的に優れ立派な人物はたくさんいます。もしかすると語り伝えられるすばらしい愛の物語もあるでしょう。しかし、日々変わらない永遠に変わらない不純なものなど何の混じりけもない完全な愛は、神様だけが持っているのです。
人間に完全なものなど一人もいないのです。聖書は罪があなたがたの内にあるから完全にはなれないんだと教えています。いくら気高く生きようとしても、いくら道徳的に生きようとしても、心に葛藤を覚えない人はいないのです。また、もしいつも自分の力でそれらに打ち勝っていたとしても、疲れを覚えてしまうことは言うまでもありませんし、自分ではその葛藤の原因を打ち破ることはできません。その根っこの部分の解決が自分ではどうしようもないのです。
開き直ることや、悟りを開くことで、人間のその根本的なところを深く追求した人はいますが、それを解決できた人はいません。悟っても開き直っても本当の解決ではないのです。私たちを造って下さった神様の前にすべてを赦していただかなくては何の解決にもならないのです。なぜなら、私たちは気付かないうちにも造り主なる神様の前に自分勝手に自分の思うように歩んできたからです。当然愛についても、愛とはこういうものだと勝手に考えてきたでしょう。これこそ神様に対して謝らなければならない問題ではないでしょうか。
神様の側では、変わらず、私たちの上に太陽を昇らせ雨を降らせ恵みを注いでおられたのですから。
人類が犯してきた罪はここにあります。自分の罪を知っていただきたいと思います。自分の内に、人類の内に本当の愛がないことを受け入れていただきたいと思います。
しかし、こんな私たちに「天の父の子となるためにしなさい。」とか「あなたがたも完全なものとなりなさい。」とすすめられているのは、完全な者が示されたからなのです。
今日の箇所のヨハネの第一の手紙4章9節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
“私たちの罪を償ういけにえ”となってくださった御子イエス・キリストにこそ、完全な愛が示されたというのです。
イエス様の十字架。それは、本当は私たち自分自身が背負わなければならない罪の責任を、その身に負ってくださった姿でした。私たちの身代わりに神様の裁きを受けて下さった姿でした。それが十字架。この十字架の死は、私たちを愛するがゆえ、私たちを愛しているからこその犠牲だったんだと言うことなのです。
他の聖書の箇所を開けば、人間は自分勝手に判断し神様から遠く離れて敵対するものとなっていたと教えられています。敵だったんだと・・・。
敵のために我が子を犠牲にして、そのままほっておけば死を迎え滅びるしかなかった私たちを救おうとされた。痛みを伴う、それも激痛の伴う犠牲を払ってまで表して下さった愛がここにあるのです。
今日までそのことを知らずに歩んできた人も、もうすでに聞いてきている人も、ぜひ今日、この神様の愛を受け取っていただきたいと思います。神様の計り知れない愛に心を開いてください。
変に聞こえるかもしれませんが、事実、愛は一方的ものです。受け取る気持ちがない方の心には感じることのないものだと思いませんか?
つまり、神様の愛も受け取る側に反発や不信感がある以上は、それ以上、感じることはないのです。
しかし、神様の愛はなお注がれ続けているのです。完全な愛を持っておられるから・・・。
犠牲を伴う愛を知っていただけたのなら、「天の父の子となるためにしなさい。」とか「あなたがたも完全なものとなりなさい。」という教えの意味もだんだん見えてくるのではないでしょうか?
11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
犠牲を伴う愛で互いを愛し抜こうではありませんか。覚悟が必要です。愛には覚悟が必要なのです。
できるかできないかではなく、するという覚悟を持って愛し合おうではありませんか。
その時、12節「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるているのです。」
私たちは神様を表す存在とされているのです。神様の臨在がいつも感じられるというのです。
16節後半「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
神様の愛の内にとどまりましょう。
神様の愛をずっと受けていればいいということです。
しかし、時として、私たちは神様の愛を疑ってしまいます。本当に愛しているのならば、こんなことはなさらないのではないかと不信仰に陥る時もあります。私たちは自分の都合だけではなく、世の救いのために生かされていることを忘れないでください。また、神様は私たちを愛しておられるからこそ時に厳しく私たちを訓練される時があるのです。
だからこそ、苦しい時ほど、神様の愛を求めていただきたい。もっと神様の愛の中へ飛び込んでもらいたいと思います。
そして、私たちは神様の愛に安心していく時、17節後半「イエスのように」なっていくのです。
なぜなら、18節「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す。」からなのです。
いついかなる時も、愛しているがゆえに信頼できる。愛しているがゆえに疑うことなど何もない。愛しているがゆえにどんな道でも共に歩みたいと思う。愛は恐れを締め出す。この通りです。恐れず信頼し続けられるのは愛されている確信と愛する覚悟があるからなのです。
神様の愛の中にとどまり続けましょう。
そして互いに愛し合いましょう。
その愛を見て、人々は神を見るのです。そして私たちもこの愛で励まされ、なお愛に生きていくことができるのです。イエス様のように・・・。