Tヨハネの手紙講解メッセージ(6)4:1〜6「見分けるだけで終わるな」
わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。Tヨハネ4:6
私たちが神様の子どもであることを証明してきたヨハネは、ここにきて、もう一度、間違った教えに気をつけるように教えています。
当時、教会は、哲学や思想などの影響を受けた人たちによって、キリストが人間となってこの地上に来たこと、人間の身代わりに十字架にかかって死んでくださったこと、そしてよみがえられたことを否定する者たちが多く起こされ惑わされていたのでした。
愛し合う関係が壊れてしまう大きな原因の一つに、誤解や行き違いなど理解不足が挙げられるでしょう。私たちは神様の愛を感じながらも、ちょっとした勘違い、行き違い、誤解を通して、神様から離れてしまうことがあるのではないでしょうか。
ヨハネは気をつけることについて、その教え自体よりもその背後にある霊に気をつけなさいと教えています。つまり、意図的に神様から引き離そうとする存在がいるということです。ということは、私たちは自分の失敗と同時に、自分を神様から引き離そうとするものに対しても気をつけなければならないということではないでしょうか。
しかし、前回の御言葉を思い出していただきたいと思います。3:20「心に責められることがあろうとも。」神様の御前で安心を得られるだけ愛されているのですから、問題はことが起こるその裏側に存在するものということになるでしょう。
結果的に同じ失敗に見えても、そこに働く神様から私たちを引き離そうとする存在の有無で、まったく違うものになるということです。
だからヨハネは、霊に気をつけなさいと言ったのです。1節「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい。偽預言者が大勢世に出ているからです。」
ヨハネはこの見分け方も教えています。
2節「イエス・キリストが肉となって来られたということを、公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」
3節「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」
まず一つ目の見分け方は、イエス・キリストのことを否定しているかどうかというポイントです。
神が人間となってくださった、そしてこの世で生きて下さる中で義を貫き、何の汚れもない生贄として十字架にかかって下さった、このことを否定するということは、これ以上ない犠牲を払ってまでも愛を示された神様の愛を拒絶することになるでしょう。だからこれを受け入れるかどうかが見分けるポイントになるのです。神様の愛を知っている者にとってこれだけは、愛を知っているがゆえに否定できないものではないでしょうか。
そして、二つ目の見分けるポイントは、5節「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
つまり、偽者は、真理に属する私たちのいうことに耳を傾けない。聞こうとしないのです。ということは、私たちにとって、聖書の言葉に耳を傾けないかどうかが問われているということではないでしょうか。御言葉に教えられ戒められ支えられていく歩みは、何によりも確かな道なのです。
そして、二つ目のポイントはそれだけではなく、彼らの話の内容に注目することでも、神様から離れていることが分かると言うのです。世に属し神様の恵みによる救いを否定する彼らは、世が受け入れやすい話をしているというのです。神様が人間になるなんて考えられないとか、死んだものが生き返るなんてありえないとか、理解できないことは受け入れなくてもいいと考える世は、受け入れやすい話だけしか話さないし聞かないということです。
結局は、御言葉に対する態度に表れるのです。
物事を見極める時、ぜひ、このポイントで見極めてもらいたいと思います。
まず、キリストを否定するものかどうか。そして御言葉に耳を傾けているかどうか。へりくだって御言葉に従っているかどうか。これに反するものはすべて神様からのものではありません。
最後に4節「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」
私たちはこの宣言をどう受け取るべきでしょうか?
もう既に勝ったと言われているのだからと気を抜いてもいいでしょうか?
もしそうならば、気をつけなさいとは教えないでしょう。
気をつけて見分けていくと共に、もし世のものが入り込んできても恐れる必要はないということではないでしょうか。私たちのうちにいる方は世にいる者よりも強いのです。神様の御思いだけが成っていくことを信じましょう。
そして、私たちはへりくだってこう祈ろうではありませんか?
主の祈りの中で祈っているように、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と・・・。
この祈りにこそ、私たちの謙遜が表されていると思いませんか?
さて、愛し合うということが教えられている真ん中に、この見分けることが勧められていることを思う時、私はどうしてもエペソの教会を思い出してしまいます。よく忍耐し疲れず偽者を見破ったけれども、愛を忘れてしまったという神様からの警告を思い出すのです。
どうしても持っている私たち人間の弱さなのだと思います。間違いを指摘した時、全人格を否定してしまう。何か問題があったときも、どうしても裁いてしまう。 見分けるその心にはいつも愛を持っておかなければならないのです。
でなければ、エペソの教会が警告されたように、教会であることが神様によって否定されてしまう恐れがあるのです。