ヨハネの手紙第一講解メッセージ(531124「愛が与えられた」

 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。                314

 わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。31920

 もし心に責められることがあっても、なぜ私たちは、自分が真理に属していることを知り、神様の御前で安心できるのでしょうか?

 ヨハネは「神様に愛され、子とされたことを知り、それを体験しているからです」と前回の箇所で証ししています。また今日の箇所では、「兄弟を愛している自分を見て、死から命へと移ったことが分かる」と前回とは違う確信を通して安心していると証ししているのです。

 つまり、こうまとめることが出来るのではないでしょうか。

 私たちは信仰を持った今でも罪を犯さないとは言い切れない。でも、もし失敗して罪を犯したとしても、父なる神様の愛は、変わらず私たちを包み込んでくださる。確かに罪に対しては厳しいけれど、そこにこそ愛があり、私たちを悔い改めへと導いて下さる。そして、赦しを請う私たちを見捨てることなど決してない。この父なる神様に対する信頼が私たちの安心へと繋がっているんだと・・・。

 与えられた愛を、使っている自分がいる。他者へと注ごうとする自分がいる。神様の愛を知ってから自分は周りの人を愛そうとするようになった。

何度も何度も確認していただきたいと思います。自分の中ではっきりと神様の愛と、愛が与えられたこの恵みを味わうことが出来るように確認していただきたいと思います。

 一つの御言葉を思い出します。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」Tヨハネ410

 この神様の愛を知った私たちは、神様の愛のうちにとどまることが大切なのです。そして、神様の愛のうちにとどまり続けるならば、私たちは出来る出来ないは別として、自分が神様に愛されたように他者を愛そうとするようになるのです。だからこそ、14節「兄弟を愛しているから」私たちの内に神様はいてくださっている、死から命へと移されたと告白することが出来るのです。

 多くの人々はキリスト教のイメージとしてこの「愛」を持っていると思います。「互いに愛しなさい。」「汝の敵を愛せよ」「左の頬をたたかれたら、右の頬を出しなさい。」しかし、たいていの人が、この教会で教えられている「愛」を馬鹿にしたり、信用していません。

 きっと理解できないからです。

 16節「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
 17節「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
 18節「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

 見ず知らずの困っている人のために、あなたは何ができますか?
 信用して家に招くことはできますか?
 信用してお金を貸すことはどうですか?戻ってこないことを覚悟して貸すことはできますか?
 どれほどの犠牲を払うことができますか?

・・・聖書は命を捨てるべきですというのです。

ほとんどの人が馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。また、前向きに考えたとしても、たとえクリスチャンであってもとても無理だと思うのではないでしょうか?
 だから、誰もこの教えを真剣に受け止めずに、妥協点を探しているんだと思います。世の中でも偽善のように思われてしまうのです。

しかし、ヨハネを始め初代のクリスチャンたちは、妥協しなかったのです。キリストの苦しみの一部を担っているんだと喜んだのです。誰かに馬鹿にされても、誰かに貶められても、迫害に遭って殺される時にも、彼らの内には神様からの豊かな愛が注がれ満ち溢れていて、この身を捧げますと迫害者のために赦しを祈ったのです。筋金入りとはまさにこのことですね。

私たちは筋金入りのクリスチャンとして歩むことが許されているのに、それを途中で放棄していませんか?

もし私たちがこの教えを語るなら、18節「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に・・・」と言う教えを、真剣に受け止めなければならないでしょう。大切なのは結果だけではありません。むしろ、その過程においてしようとしたかどうかが一番求められているのです。
 なぜなら20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。」とあるからです。結果は心に責められるものだったかもしれない、しかし、その心にはこの御言葉に従おうとする思いがあったと神様には分かるというのです。

私たちは自分の力だけで何事もしなければならないのではありません。むしろ神様が成してくださるのです。私たちがおごり高ぶらないためにも、神様の助けの中で、私たちをご自身の業に携わらせて下さるのです。
 世があなたを憎むまでもなく、私たちの側で、愛をあきらめてはいけないのです。

 そして22節「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」このように告白しようではありませんか。

 そのためには、父なる神様に愛されている経験を沢山する必要があります。
 愛するとはどういうことなのか。神様の愛を受けて学ぶ必要があります。
 神様の愛の内にとどまり続けましょう。そして、神様に私たちの内にとどまっていただきましょう。その時、私たちの間に愛し合う関係が見事に建て上げられていくはずです。
 その時、私たちはお互いの愛を通して神様が共におられることを感じるでしょう。

 もう一度言いますが、たとえ心に責められることがあってもです。
 愛をあきらめないでください。