ヨハネの第一の手紙講解メッセージ(4228310
              「神の子とされたということ」

 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
                          Tヨハネ
31

 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。Tヨハネ31920

 「神様の子とされた」との教えを、私たちはどのように理解していますか?この教えが神様に対する安心や日々の平安に繋がっているでしょうか?

 ヨハネは、「神様の子とされた」ことが、自分が真理に属していることを知り、神様の御前での安心に繋がっていると言っているのです。もちろん、日々の平安についても言うまでもありません。ヨハネにとって神様の御前での安心はすべての平安に繋がっていたのです。信仰者はそういうものではないでしょうか?

 31「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」

 多くの人々が、御父と御子キリストとを否定し、教会から離れていく中で、ヨハネは神様にどれほど愛されているかを考えなさいと、その愛の大きさは、「神様の子とされた」ほどなんだと訴えました。

 もし私たちに信仰と実際の生活を結びつける理解が乏しければ、私たちは非常に弱く信仰を守り続けることが困難です。たくさんのものの見方、考え方が教えられ、たくさんの価値観が認められている世の中で生活するのですから、不十分な理解は間違った理解に陥ってしまいやすいでしょう。

 ヨハネが生きていた時代ですらそうでした。当時の哲学や思想に信仰を奪われていった人々がたくさんいたのです。

 そんな状況の中にいる人々に対して、ヨハネは「神様の子とされた」その愛の大きさを語ったのです。いつの時代になっても子どもは、かわいらしい愛される存在です。それも我が子となれば格別です。ヨハネは、神様の愛の大きさを、我が子を思う親の気持ちにダブらせて教えたのです。ヨハネ自身が、神様の愛を親が子を愛する愛のように感じていたのでしょう。

 まずは、親の愛ってどんなものか考えてみましょう。
 そして、信仰が自らの中に生きてくる経験を分かち合いましょう。

 うちには二人の子どもがいますが、私も親になってようやく親の気持ちと言うものが分かり始めてきたように思います。なかなか、理想には程遠い自分ですが、親の愛を考えたときに、二つのことを証ししたいのです。一つは以前にも証ししたことですが、親は子どものことになると我を忘れるほどの思いを持っているということ、そして、もう一つは、我が子だからこその厳しさも持っているということです。

 私は一度、病院でお医者さんに怒鳴ったことがあります。また息子が生後6ヶ月ぐらいのときのことでした。かぜをひかせたために病院に行ったのです。私は、診察室に入ってしばらくしたころから聞こえ出した息子の鳴き声に我慢できませんでした。診察室では息子に点滴をしなければとお医者さんも看護婦さんも苦労していたわけですが、母親から離されてベッドに押さえつけられた息子の姿と、またその手と足に8箇所以上もの針をさした跡を見た時、カッとなっていました。牧師であることを忘れていました。我を忘れて怒っていました。親は子の苦しむ姿に弱いものです。どうしようもない激情に駆られます。できたら代わってあげたいと思うのではないでしょうか?その方がずっと楽だと思います。神様は独り子を私たちのためにささげてくださいました。このことの大きさは、この時の犠牲の大きさは、この時の神様の苦しみの大きさは、とても計り知れないものではないでしょうか?

 我を忘れるほどの激情が神様の御心を打ち付けても、私たちのためにその思いを治めて下さった神様の私たちへの愛を考えていただきたいのです。

 そして我が子だからこその厳しさについても考えましょう。
 今、長男の凛は、私から三つのことをいつも言われています。うそをつかない。物を大切にする。失敗しても逃げない。この三つです。この三つに関してはとても厳しく叱ります。決して大目には見ません。なぜでしょうか?大人になっても絶対に必要なことだと思っているからです。これだけは今覚えなければならないと思っているからです。凛にとっては大変なことですが、親の私にとって辛い問題です。怒りたくて怒っているわけではないのですから・・・。今日ぐらいは大目に見てやるかといい加減にしてしまってはだめな時期が来ていると思うからこそ叱らなければならないのです。これほど疲れるものはないと思います。ここに親の愛があると思いませんか?

 子どもの時分は、親の厳しさだけが残るのかもしれませんが、成長するにつれ親の愛情だったことが分かると思います。神様の厳しさは深い愛情の現われだと分かっていただきたいのです。

 この二つの例を通して親の愛にたとえられた神様の愛を少しは理解していただけたでしょうか?

 しかし、神様の愛を語るとき、もう一つ覚えなくてはなりません。それは、我が子ではなかった者を、それも我が子を殺した者を、我が子として育てて見なければ分からないことかもしれません。イエス様を十字架にかけた人間を、神様は愛し憐れみ我が子と呼ばれるのです。私は親になって初めてこの愛の深さを知りました。自分の二人の子どもを持って初めて、私は他の子どもをも同じように愛する難しさを知りました。しかし、神様はなおかつ我が子キリストの命を奪った者たちをも愛されるのです。スケールが違いすぎます。その愛で私は愛されているんだな・・・我が子をさえ惜しまずささげてくださったお方が、何を惜しまれようかと聖書にある御言葉は、神様の限界を知らない愛を私たちに教えているのです。

 皆さんが神様を呼び求める時、神様は我を忘れるほどに激しい、また我が子を思えばこその厳しさを持った、そして限界のない愛で、私たちを包み込み守り応えてくださるのです。

 さて、神様の愛について考えてきましたが、そのうえで、次に信仰が自分の中に生きてくる経験を分かち合ってみましょう。

23節「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

ヨハネは子どもとしての私たちについても教えています。

天の御国において、自分たちがどのような姿になるのかは知りません。御国に行くこととキリストに出会うことは知っています。だから、キリストに似た姿になることも知っています。しかし、その姿を今は知らないのです。しかし、私たちはキリストの人間となって歩まれた生涯を知っています。ヨハネは、そのイエス様に倣うようになると言うのです。

最近こんなことに気付きました。
 私もひとりの一般的な親として、良い親になれるように成長していきたいと願う中で、いつしか自分の中で親としての理想像みたいなものができあがってきました。愛情深く、話をちゃんと聞けて、思慮深く、忍耐深く、また叱り方を心得ていて必要な時だけ叱るような・・・。例を挙げていくときりがないわけですが、よくよく考えてみると、この理想像、知らず知らずのうちに神様のことをモデルにしていたのです。神様のように愛情深く、神様のように話をちゃんと聞けて、神様のように思慮深く、忍耐深く、また叱り方を知っていて必要な時だけ叱るという風に・・・。まだまだ親としては半人前ですが、また自分で言うのもなんですが、私の中で確かに信仰が生きているなあと感じてうれしかったのです。皆さんにも自分の中に神様の姿が理想として輝いているのではないですか?神様ならば、イエス様ならばと思う心があれば、それが信仰に生きている証拠です。

 「神様の子とされた」ということを考える時に、子どもにとって親はどんな存在かを考えてみてはどうでしょうか?

 普通、子どもは親を見て育つものです。親の影響を受けやすいということでしょう。だから、はっきり言ってしまえば、親によって子どもは変わるということです。声に出しては言わないかもしれませんが、また意識もしないかもしれませんが、子どもは親のようになりたいと思うものなのです。
 自戒を込めて言いますが、親が未熟だと子は未熟なままなのです。つまり、育たないのです。愛情不足だった子どもは、愛することに未熟さを持ってしまうと言われていることを思い起こします。

 私たちにとって神様を父と呼ぶことは、つまり父なる神様の影響を受けるということです。神様の愛の深さ、厳しさ、清さ、正しさ、激しさ、その一つ一つに影響を受けるということです。私たちの必要をすべて知っておられるお方は、不足している成熟しきれていない面を補い育てて満たして下さいます。日頃から何か特別なことがなくても、そこに神様の愛を感じるはずです。

 4節からヨハネは、子とされた私たちは、罪を犯さない。と語り始めます。 しかし、皆さん自分を見てください。私たちは罪を犯してしまいます。とても犯さないとは言えないでしょう。なのにヨハネは「罪は犯さない」と言ったのです。このギャップはいったいどう理解すべきでしょうか?

答えは誰もが知っています。信仰の働かせ方を知って下さい。イエス様は何のためにしなれましたか?私たちの罪のためでした。その十字架の恵みに満たされた私たちは罪に定められることがないと聖書にあるではありませんか。
 また9節の御言葉に注目して下さい。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」

私たちの内に種が蒔かれている。種は根を張り、芽を出し、茎を伸ばし、枝を張り、葉を広げ太陽の光を浴びて花を咲かせる。そして身を実らせて子孫を残す。こんな種が私たちの内に蒔かれているというのです。確かに信仰を持ってから、私のうちで変化があります。私は罪を犯してしまうことがありますが、しかし、心の底では罪を犯したいとは思っていない。神様に従いたい、神様の喜ばれる生活がしたいと願っているのです。私は今、どんな状況であれ、神様と共に歩みたいと思うようになっているのです。これこそ私の内に神様がいてくださっている証拠ではないでしょうか?自分の内にこの種が蒔かれていることを感じるとき、私たちは神様の前に安心していいのです。

 父なる神様の愛を感じましょう。子どもとされたことを覚えて神様を見上げていきましょう。自分の内に蒔かれている種が、神様について行きたいという思いを起こさせていることに気付いて下さい。