ヨハネの手紙T講解メッセージ(321827
                「キリストにあって一つに」

 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。Tヨハネ219

 どのような形であれ、どのような理由であれ、教会から人が去っていくことは、本当に悲しく寂しいものではないでしょうか。私は牧師になって、つくづくそう思うのです。確かに仕方がない場合もあります。転勤や就職、就学による引越しなどで遠方に行かれる場合は仕方がないでしょう。しかし、人間関係や理解の不一致などお互いの違いを乗り越えられなくて去っていく者が出てきたとしたら、それは非常に残念で後悔してもしきれないものだと思います。
 私が牧師だから思うのと同じように、きっと皆さんもそう思われるのではないでしょうか?

 19節「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。」

 牧会者ヨハネは、ここで、教会の中から去って行った者たちのことを「もともと仲間ではなかったのです」というしかありませんでした。
 ヨハネもまた、教会から人が去って行く悲しい経験をしたのです。もっと言えば、初代教会の時代から、クリスチャンたちは、教会から人が去って行く悲しみを担ってきたということです。

 実のところ、去って行った彼らも一度は教会に集っていた者たちだったのです。キリストを信じる信仰を持とうとした者たちだったのです。もしかすると信じ始めていた者たちもいたことでしょう。20節にあるように、「聖なる方から油を注がれた」そんな経験を持った者もいたと思うのです。そんな彼らがあるとき信仰に躓き、キリストを信じる信仰やその教えを否定し始めたのです。 
 前回、前々回にも確認しましたが、「キリストは神であり聖なるお方なのに、汚れた肉体を持つわけがない」などと言って、イエス様がキリストであることを否定したり、身代わりの死では不十分だと信仰による救いを否定したのです。


 教会の中に動揺が走りました。混乱に巻き込まれた者たちの中には、彼らの教えに惑わされる者たちが出てきました。とても一緒に教会を建て上げることができなくなっていました。
 ヨハネは、教会が彼らを受け入れ続けることができなくなっている状況を前にして、苦渋の決断を迫られたのです。

 22節「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子とを認めない者、これこそ反キリストです。」

 ヨハネは苦渋の決断を迫られる中、御父と御子を認めない者たちを「反キリスト」として、彼らは間違っていると公けに彼らの教えていることを否定したのです。

 その結果、教会から去って行く者たちが多く出ました。

 19節「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。」
 この言葉は決して間違っていない。真理だと言えるでしょう。しかし、教会から人が去って行く悲しみの分かる者として、こう言わざるを得なかったヨハネの苦しみを想像してしまうのです。今の私たちにもよく理解できるのではないでしょうか。

 さて、ここで問題にされていることは、ただ一つ「御父と御子を認めるかどうか」この点だけだったことに注意しましょう。
 そのほかの何事も教会を去って行く理由になっていないということを確かめたいのです。
 これまでの教会の歴史を見るとき、この唯一の点以外の理由で教会を去って行く人たちがなんと多くいたことかと思います。
 人間関係の問題や考え方の違い、やり方の違い、その他にも礼拝の仕方や教会運営の仕方など様々な理由が挙げられ、教会から人が去っていきました。これは仕方がないことなのでしょうか?乗り越えられない問題なのでしょうか?

 ヨハネは23節からの箇所でこう言っています。「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」

 私たちは皆、御父に結ばれています。御子にも結ばれています。私たち一人一人の間には、沢山の違いがあるけれども、私たちは同じ主に結ばれているのです。それも主が示して下さった愛によって結ばれているのです。そしてそれは御子が約束して下さった永遠の命だとヨハネは言ったのです。

 もし、いがみ合った感情を持ったまま永遠の命を生きるとしたらどうでしょうか?
 もし、憎しみを持ったまま永遠の命を生きるとしたらどうでしょうか? 他にも、怒りや、悲しみなど持ったままだとしたら、それこそ地獄でしょう。

 私たちは御父と御子に結び合わされると同時に、私たちお互いも御父と御子とによって結び合わされていくのです。教会がキリストのからだと言われるゆえんはここにあります。そして、教会が一つとなっていく力の源もここにあるのです。

 御父と御子に結び合わされて、愛を受けて、私たちは互いに愛し合うものではなかったですか?御子は「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」この二つを教えられたではありませんか。
 私たちは教会を去ってはいけないのです。乗り越えましょう。互いの違いや、壁の一つ一つを。

 最後になりましたが、もう一つ確認しなければなりません。

 それは、どうしても御父と御子を認めないものに関しては、私たちは厳しさを持つ必要があるということです。排他的な危険な宗教団体だと言われかねないことを言っているかもしれません。しかし、なぜ、私たちの救い主はキリストなのでしょうか?この名前以外に救いはないとローマ書にあるのはどうしてでしょうか?このお方にこそ、このお方が成してくださった十字架の業にこそ、私たちの罪を赦し私たちを救うことのできる力があるからではないでしょうか。ここに真実があると、私たちはただこの十字架を純粋に信じているのです。

 もしこの点を崩すならば、その教会はキリストの教会ではなくなってしまうのです。ヨハネが苦渋の決断をしたこの厳しさも同時に覚えていく必要があるのです。

 私たちは、教会として、主にあって一つになっていきたいですね。しかし、あくまで純粋に、時には厳しさを持って、教会を守る必要も心に留めながら、愛を働かせて一つになっていきましょう。