ヨハネの手紙T講解メッセージ(2)2:1〜17「永遠への招き」
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。Tヨハネ2:17
神の光に照らされたら、自分の内側に隠せるものなんて何もありません。神様にはすべてお見通しなのです。そのことを知って私は、確かに自分は罪ある者だと認め、その罪から身を守ろうと気を付け始めたように思います。例えば、誰も見ていなくても神様は見ていると自分に言い聞かせたり・・・。自分の心が悪に傾き始めたのを感じたとき、前だったら悪いとも思わずそのままにしていましたが、神様のことを知ってからは、これは悪だ!罪だ!とはっきり認め、何とかその悪い思いを乗り越え罪を犯さないようにしようとするようになりました。
確かに、神様を知ってから、私は罪を犯さないようにと罪を遠ざけようとするようになったのです。
ヨハネはこう言いました。2:1「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」
私たちが神様のことを知り、神様の掟や教えを知っていくことが、私たちのいのちを守ることになるのだなともう一度改めて教えられるのです。
しかし、私たちは、たとえ神様を知っても、その教えのすばらしさを知っても、何をすればいいのか、また何をしたらいけないのかを事細かに教えられても、到底完全に正しく歩むことはできないように思います。それを目指しているけれども、そうなりたいと願っているけれども、自分の歩み中で間違いが起こらないとは言い切れない弱さを私たちは持っているのです。聖書の言葉を借りれば、感情的な弱さ、また肉の弱さだと言えるでしょう。あれがほしい、これがほしいという欲や求めているものに囚われてしまう弱さ。妬み、嫉み、怒りなどの私たちを愛から遠ざける感情。神様を第一に求めていけない何かが私たちの内にあるでしょう。
ならば皆さん、私たちが罪を犯してしまうことは仕方がないことなのでしょうか?
実は、当時、教会の中でグノーシス派と呼ばれる初期の群れが、(前回も話したキリストは肉と一体となるわけがないと教えた人たちが)キリスト教倫理を覆す教えを広めていきました。罪に対して寛容な態度をとることで罪を犯しても仕方がないんだと、クリスチャンたちの罪に対する意識を低下させ軽くしていったのです。肉体は魂を宿す単なる器にすぎないから、肉体がどんな行動をとっても魂は何の影響も受けないと教えたのです。また別の教師は、本当に霊的になった人は、どんなものによっても汚れることがないと教えました。つまり義を行わなくても義人になれるということです。神様との交わりは行いや道徳性とは無関係なんだということです。だから、文字通り、神様の教えを守れなくても仕方がないと、またはいいんだとさえ教え、兄弟を愛することや、他の偶像(神々)に仕えてはいけないという教えを、この世で生き抜く知恵として臨機応変に守ればいい、または守る必要がないと教えていったのです。
ヨハネは、これらの教えに、NO!と言ったのです。この教えは間違っている!と。
なぜなら、たとえ失敗しても、たとえ罪を犯してしまっても、イエス・キリストがおられます。父なる神様に対して弁護して下さるお方がおられます。このお方こそ、私たちの罪のために、また全世界の罪を償うために生贄となってくださったお方なのですから、このお方に従いましょう。このお方が私たちを導いて下さいます。救いの道を進ませて下さいます。仕方がないとあきらめるのではなく、開き直るのでもなく、ただひたすらに罪と戦おうとヨハネは切なる思いを私たちに向けているのです。
3節「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」
4節「神を知っていると言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理がありません。」
5節「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。それによってわたしたちが神の内にいることが分かります。」
6節「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」
つまり、イエス様はサタンの誘惑に遭われたとき、神様の御言葉によって断固としてサタンからの誘惑を退けられました。そのように私たちも日頃の生活の中で、御言葉をしっかり握って、誘惑に負けないように。罪に対しては断固とした態度をとれるように。
また、父なる神様の望まれる道へ突き進んで行ったイエス様の態度、イエス様には十字架から降りる力がなかったわけではなかった。ただ父なる神様の御心を知りそれに従ったのです。イエス様のこと態度は、父なる神様に対してまったく混じりけのない何の曇りもない、神様を第一とした誠実な心を表していると思いませんか。私たちはこの態度に倣う者でありたいですよね。
そしてもう一つ、イエス様は人々が近づこうともしないらい病人や、罪人だと言われ嫌われ者となっていた取税人やサマリヤの人々にも変わらず愛を注がれました。この世のすべてを愛されたことは言うまでもありません。その愛を受けて私たちは愛されている喜びを抱くことができました。その喜びに満たされて私たちは他者を愛する者となることができるのです。
またそれだけではありません。イエス様の愛は十字架で自らの命を捧げるという犠牲を払って私たちに明らかにされました。この御業は、私たちに、愛は犠牲を伴うもので、愛することが痛みを伴うことだと教えてくれているのではないでしょうか。
イエス様に倣う者となりなさい。「倣う者になりたい。」私たちは救われた時、一度はそう思ったのではなかったですか?
ヨハネは続けて7〜11節で、イエス様が歩まれたようにということを、この愛に生きることだと教えます。(7〜11節読む)イエス様に倣う者となるために、この愛は避けて通れないポイントなのです。
特に9節「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。」
そして10節「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」
兄弟を愛せないものに神を愛することはできないと別の箇所でも教えられているように、またイエス様は、神を愛することと隣人を愛すること、この二つで神の掟(律法)を完全に全うできると教えられたように、私たちの信仰の原点がここにあるといっても過言ではないでしょう。
実はレビ記19:18に「互いに愛しなさい」と律法の中にも愛し合わなければならないことが定められているのです。新しい掟と言うけれど、実は昔からずっと変わらない神様の掟だったのです。しかし、今また新たにこの掟を神様の掟として教えますというのです。
15節「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人のうちにありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出ているからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」
私たちは覚えておくべきです。私たちは廃れてしまう世に生きているということを。その世の中で廃れないお方を信じ求めていく必要があるということを。そして、廃れないお方は、私たちに永遠を約束して下さるのです。神様の祝福に終わりがないということを約束して下さっているのです。