ヨハネの手紙T講解メッセージ(11110「命の光に照らされて」

 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。Tヨハネ15

 1節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。−この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」

 なんと力強い証しでしょうか?

 「自分のこの耳で聞き、目で見て、よく見てこの手で触れたもの」を伝えているというのです。この手紙を書き記したヨハネは、彼自身の告白どおり約3年もの間、イエス・キリストと寝食を共にしました。12人いたイエス様の弟子の一人だったのです。

 この手紙が記された当時、実はこのヨハネたちの世代(第一世代)は、非常に少なくなっていました。実際にイエス様を見た経験のあるクリスチャンが、次々とこの地上での生涯を全うして天に召され、次世代へと信仰が受け継がれ始めた時期だったのです。

 教会はあの激しい迫害を乗り越え、一時的にではありましたが少し平和を取り戻した感を味わっていました。しかし、外部からの激しい攻撃を受けている時は表に出てこなかった歪みが目に付くようになってきたのです。

 教会に中に議論が起こりました。「イエスは本当にキリストだったのか?」と・・・。イエスは、父ヨセフと母マリアの子どもであって、ただの人間であったのではないのか・・・。なぜなら全く汚れのない神聖なお方キリストが、罪で汚れたこの肉体を持つなんてことはありえないのではないか・・・。もしそんなことをしたらキリストが汚れてしまうのではないか・・・。

 教会の中で指導者だった人の中に、キリストが肉体を持った人となってこの地上に来て下さったことを否定する人たちが出てきたのです。この人たちは、バプテスマのヨハネからヨセフの子イエスがバプテスマを受けた時、清められた肉体にキリストの霊が下ったのだと言いました。そして、ヨセフの子イエスが十字架にかかる直前に天に戻られた。十字架の苦しみにあったのは、ヨセフの子イエスだけなんだと・・・。

 教会が広がった地域を思い出してください。地中海沿岸を思い出してみてください。ギリシャのアテネをはじめ哲学の発達した地域だったのです。ソクラテスとかプラトンとか有名な哲学者たちが、輩出された地域だったのです。

 教会の中にこれらの哲学や思想が入り込んできたのです。

 多くの人たちがクリスチャンたちに対して言いました。「お前たちは見たのか?お前たちはただ信じているといっているが見たことも聞いたことも触れたこともないではないか」と・・・。

 イエス様が私たちとある意味同じ条件でこの地上の生涯を全き人として歩みきってくださり、私たちの身代わりに罪を背負って十字架にかかって下さった。このとき流して下さった血と引き裂かれた肉、そして味わって下さった表現しがたい苦しみはすべて私たちの罪を赦すための犠牲であった。この救いの定義が崩れようとしていたのです。だからヨハネは、もう一度、わたしは聞いた、見た、触れたんだと、自らの体験を証しする必要があったのです。

 私たちもよく言われます。「キリストに会ったこともなければ、手で触れたこともない、なのに信じているのか?信じていけるのか?」と・・・。「目に見えないお方をどうやって証明するのか」と・・・。

 この問題は、初代教会の時代から続いている問題なのです。
 人間の弱さというか、神様から離れてしまっている罪を、明確に表している問題なのです。

 ヨハネは、これらの神様から離れてしまっている人たちに対して、また、たとえそれが一度はイエス・キリストの救いを信じたけれど信じきれなくなった人たちに対しても、同じように語っています。3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」と・・・。人々を神様に導くために、離れていた人たちを立ち返らせるために、私は語っているんだと・・・。交わりを回復しましょうと語っているのです。

 そしてヨハネはずっと語ってきたのです。神様との交わりのある関係を回復するために、イエス様の十字架は、神様から離れてしまっているすべての人のための救いの道なんだと・・・。
 イエス様は、すべての人の罪を赦すために、罪を背負って、その身を捧げて下さったと・・・。

 神様が決めたのです。
 罪を犯した場合、その償いとして生贄を捧げなさい。血によらなければ罪は赦されないと・・・。旧約時代、人々は牛や羊を自分の身代わりとして、自分の罪を負わせて生贄として捧げました。しかし、罪深い人間は心を伴わない形だけの生贄を捧げるようになりました。
 神様は心を求めておられたのです。牛や羊を求めておられたのではありません。神様に対する純粋な信仰を求めておられたのです。そこで、完全な全く不足のない代価をご自身で支払い、私たちには自分で犠牲を払うことではなく、ご自身の犠牲を受け入れることを求められたのです。それが、イエス・キリストの十字架でした。

イエス様の苦しみは私のためだったと信じるその心、信仰を求められたのです。
 しかし、ヨハネの生きていた初代教会の時代から、イエス様の十字架に対して教会内部から不信仰が出ていたとはショックなことです。イエス様の十字架そのものを否定する教えまで語られるようになっていたのです。

ヨハネはそんな中、6節、8節、10節の警告を発し続けました。
 6節「わたしたちが、神との魔地割を持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」
 8節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」
 10節「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」

ヨハネは、神は光であるとことを知っていました。その光で自分の内側が照らされることを知っていました。自分の内側に闇のあることも知っていました。それを神様ご自身が既に見通されていることも知っていました。ただへりくだることが求められているのです。7節、9節〈読む〉神様の前にへりくだったときに必ず救いがあるとヨハネは知っていたのです。

今日、私たちはまず、神様の光に照らされて、心の闇を、罪深さをへりくだって受け入れましょう。そして、気付いた罪を神様の前に告白して赦していただきましょう。そこから救いが始まります。