030112ヤコブの手紙(11118「新旧合わさる時」

 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。ヤコブ118

 使徒の働きに見られる圧倒的な神様の御業により、人がどんどん救いを受け入れ、教会がキリストのからだとして整えられていかなければならない過渡期、イエス様の兄弟ヤコブは、エルサレム教会の監督でした。もう既にアンティオキアでは異邦人たちの教会が建て上げられていましたし、それ以前に、ペンテコステのその日、多くの異邦人が十二人の使徒たちが語る証しと、その中でもペトロの語ったメッセージを通して救いを受け入れ仲間となっていました。

 この新旧合わさる時、ヤコブはエルサレム教会の監督として、また世界中に広がり始めたキリストを信じる者たちのリーダ的存在として、教会内に起こってくる様々な問題をきりもりしていたのです。 彼は出て行って宣教することよりも、残って内側を整えることを神様から任されていたのです。

 また、エルサレムは、元々主なる神を信じてきたユダヤ人たちの聖地です。この当時は、律法主義者たちの巣窟と言ってもいい場所となっていました。キリストを抹殺した者たちが聖地としていた町でしたから、キリストを信じる者たちへの迫害の激しさは尋常ではありませんでした。

 もう既にステファノは石打ちにされ殉教していました。また、多くの名の知れない信仰者たちが殉教していました。そして、ヤコブも後に殉教することになります。
 ユダヤ教とキリスト教、この新旧合わさる意味においても、ヤコブはたいへんな責任を負っていたのです。
 そんなヤコブが何を見据え、何を求め、何になろうとしたのか18節「いわば造られたものの初穂と・・・」なること・・・。ここに彼の集約された思いがあると思いませんか?

 私たちが救われるために、もう既に眠りについた者たちが復活するために初穂となられたのは誰でしょうか?キリスト、十字架にかかり死んで下さったイエス様ではなかったか。
 イエス様はただただ神様の御心がなされることを望んでいたのではなかったか。
 人を救うのは神様の御旨だったのです。イエス様を十字架にかけることも、そして犠牲として殺すことも神様の御旨だったのです。イエス様はただ神を愛し、また私たちを愛するがゆえに、その道を進んで下さいました。ご自身をののしる者たちのためにとりなし命をささげて下さいました。

 その同じ道を、ヤコブは見据えていたに違いない。求めていたに違いない。キリストのようになりたいと日々キリストのようになろうと信仰に生きたに違いない。それが初穂となることだったのではないでしょうか。
 そんなヤコブが1節「離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。」と、狭い意味でとれば、ユダヤ人キリスト者、広い意味でとれば、キリスト者全体に対してこの手紙を書きました。そして今を生きる私たちにも届けられています。新旧分けて言うなれば、旧であるユダヤ人キリスト者、そして新旧合わさったキリスト者全体。ですから今日、皆さんにはそれぞれの立場で聞いていただきたいと思います。

 2節「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」
 ヤコブはキリストの体なる教会を建てあげていく中で、様々な試練を乗り越えなければなりませんでした。教会ができて一番初めの問題は、食事の配給に関するものでした。均等に分けてもらえないと、新たに仲間に加わった新しいグループ、ギリシャ語を話す外国に住んでいたユダヤ人たちの側から苦情が出たのです。本来ならば起こるはずもないとても些細なことでした。しかし、昔から仲間であった古いグループ、ヘブライ語を話す生粋のユダヤ人たちの間違った仲間意識がこの問題を引き起こしたのです。新旧合わさるとき、このような起こるはずもないであろう些細な問題は数え切れないほど出てくるものだと思います。結局、教会は、七名の執事を立てることにしました。この時、驚くことに七名全員がギリシャ語を話すユダヤ人の側から選出されているのです。しかし、それが功を奏し、彼らが細々と出てくる問題を解決していきました。使徒たちは御言葉と祈りに専念することができました。

 その次の問題は、新しいグループである外国に住み外国で信仰を受け入れたと言っている異邦人たちの信仰を認めるかどうかでした。ペンテコステの時は、みんなが聖霊に満たされて受け入れざるを得ない状況でしたが、今回はまだ会ってもいない人たちもいるという難しいものでした。古いグループであるエルサレム教会のメンバーは悩み考え議論しました。キリストの教えがどこまで理解されているのか、旧約聖書という土台のない者たちがキリストを正しく理解できるのだろうか。今まで清くない生活を続けてきた者たちが清く生活を改められるのか。自分たちが守っている律法をどこまで守らせるべきなのか。様々な問題をどう治めるか試練に立たされました。

 結局、教会は、自分たちで判断することを止めて、自分たちの価値観を押し付けることも止めて、彼らに聖霊が注がれた事実を認めたのです。神様の御霊なる聖霊は神様が注がれるもので、他のだれも注ぐことのできないものだから、神様が認めるものを批判することはできないとへりくだって結論付けたのです。

 そして、その次に出てきた問題は、信仰を認められた新しいグループである異邦人たちの生活の仕方と古いグループであるユダヤ人たちの生活の仕方の違いから起こってきました。律法を大切にしていた古いグループの者たちが、自分たちの大切にしている信仰生活を踏みにじられているように感じたのです。生活文化や、育ってきた中で身についた感覚の違いをどう乗り越えるのかが問題でした。教会は、この時、どうしても赦せないものだけをお互いに大切にし、お互い配慮し合い守るように求め、それ以外についてはすべて新しいグループの信仰生活を認めたのです。教義的な問題で絶対に赦されないものだけを取り上げてお互いに守ろうと促したのです。お互いにお互いの良さを認め合い歩み寄る必要があると結論付けたのです。

 そして最後に出てきた問題は外部からの攻撃でした。迫害です。キリストを信じる信仰を許してもらえない現実を突きつけられたのです。キリストの教えは仕返しすることをよしとはしていませんでした。忍耐が必要でした。いのちの危険にさらされながらも神様を愛する信仰が試され、文字通り神様を信じて仰ぎ続けることが求められました。そして耐え続けたのです。

 ヤコブにとってこれらの問題を乗り越えなければ、キリストの体なる教会を建て上げることができませんでした。つまり進むべき道に立ちはだかった試練だったのです。そんなヤコブにとって乗り越えるための秘訣となったのは、今見てきて分かるように、いつも神様から頂く信仰と知恵でした。
 「信仰が試されることで、忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」

 信仰は忍耐を生じさせることは私たちでも知っているのではないでしょうか。その忍耐を支えるのが信仰であることも知っているのではないでしょうか。忍耐が物事を見極めるために時間をくれます。それに、神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのだと言われている通りです。だからこそ、その忍耐を生み出す信仰が重要なのです。

 そしてもう一つの秘訣である神様からいただく知恵。先ほど見てきたように、いくつか乗り越えてきた問題を挙げましたが、ヤコブはその一つ一つを実に明快な答えを神様からいただいて解決していったのです。
 ポイントは何か?この問題の核心は何か?しっかり見抜いていきました。そしてその解決策は何か?しっかり探し当てていきました。神様から知恵をいただいて解決していったのです。
 だからヤコブはこう言ったのです。「あなたがたの中で知恵にかけている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」と・・・。

 ヤコブはこの手紙の一番初めに、信仰と知恵について教えました。 なぜなら、自分が歩んできたこれまでの道と同じように、この手紙が書かれた背景にも新旧のぶつかりあいがあったからでした。信じることで救われるという信仰義認の立場と、行ないもなければ信仰はないのと同じだという立場との間に摩擦が起こっていたのです。そしてまた、迫害は日に日に激しさを増していたのです。
 そんな状況の中で、信仰と知恵が重要だと教えたヤコブは、もっと踏み込んで語らなくてはなりませんでした。9節からと12節からと二つの例を挙げました。

 9節「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」  ここで言われていることは生活レベル、お金や財産のことですが、実はここで生活レベルのことだけを教えているわけではありません。その一つの具体例から、二つの立場の対立がいかに改善されるかが教えられているのです。
 主にある兄弟同士、ない者とある者、持っている者と持っていない者、ギリシャ語を話す者とヘブル後を話す者、新旧合わさる時、二つの立場の者同士が互いにへりくだり、互いに高めあうことができないでしょうか?お互いに認め合うそんな自分たちを誇りに思うことはできないでしょうか。

 12節『試練を耐え忍ぶ人は幸いです。・・・誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。』
 私たちは災いに遭い試練にさらされた時、思うことがあるのではないでしょうか。なぜ神様はこのような試練に遭わせるのか。災いを計画されたのかと・・・。
 しかし、今日はっきりとさせましょう。
 神様が私たちを誘惑することはありません。私たちを誘惑し災いに貶めるのはすべてサタン、悪の存在なのです。
 神様は、私たちに祝福を注ごうとして下さっています。

 迫害が起こったのはなぜでしょうか?人間の欲望と権力への執着、悪意からではなかったか。この試練の中にあって、神様を疑ってはいけなかったのです。
 そしてヤコブは16節から核心に迫ります。「思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」
 すべての祝福の源は御父にある。父なる神様は、いつも代わらないお方であるというのです。
 私たちの状況がどう変わろうとも、父なる神様は変わらない。愛を注ぎ、祝福を注ぎ、私たちをみもとへと導いて下さるお方なのです。 最終的に私たちは、この生涯を終えたとき、御父のみもとで最高の祝福を受けることができるのです。
 その希望をしっかりと握ったから、ヤコブは、この世においては自分の生涯をかけて、御父の御心のままに初穂とならせていただこうと告白したのです。
 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、多くの実を実らすことはできない。

 キリストは神様からの初穂として一粒の麦のように地に落ちて死んで下さいました。そのことにより救いを受け取った者たちが起こされキリストを信じる群れが誕生しました。いわゆるこの世に実った初穂です。ヤコブは、今度は初穂である自分たちがすべてささげて、いのちをかけて新しい実を実らせていくことを求めたのです。
 初穂となる。
 私たちはこの白浜周辺地域における初穂ではありませんか。

 そうだと言う自覚を持って、初穂となろうではありませんか。

主よ私を用いて下さい。何もできないものですが、御父の前にへりくだり、起こってくる事柄の前にも、父よあなたを疑いません。私たちを初穂として、この地に新しい実りを実らせる犠牲として下さい。初穂であることを受け入れます。

ヘブル111316「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を捜し求めていることを明らかに表しています。もし出てきた土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」