龍神村 (りゅうじんむら)は、かつて 和歌山県 日高郡 に存在していました 。同県の中央東部に位置し、龍神温泉で知られています。2005年5月1日に田辺市、中辺路町、本宮町、大塔村と合併し、新・田辺市になったが、田辺市龍神村として固有名詞を維持しています。
和歌山県の中央東部に位置し村の約70%を標高500m以上の山岳が占め、日高川が村内の主要な地区を流れていて東に鉾尖岳(1319.2m)、牛廻山(1206.8m)、西に虎ヶ峰(789.5m)、南に和田森(1049m)、笠塔山(1049.4m)、北に護摩壇山(1372m)、城ヶ森山(1268.8m)があります。
龍神村に人が住んでいた形跡は昭和53年に発見された縄文時代の土器によって証明されていますが、それ以前からも現在へと連連とこの地に人々は存在し続けてきました。
その昔、都には比較的近かったが未開の地龍神村はその時々の中央からの追っ手を避けるための隠遁場所でもありました。約千三百年前の昔、大和朝廷の豪族巨勢一族が落ち延びて来たと云われています。村には七小森八平(ななこもりはちだいら)と云いまして小森という地名が古くから数多くあります。小森とは落人の籠もったところと云われた事から生じた地名であると言われています。
龍神五百原には平氏の落人奈目良一族、龍神小森には藤原の末裔の屋敷跡があり、甲斐ノ川玉谷、小又川小森にも落人屋敷跡が現在も残っています。
宇治川の戦で敗れ、平家に追われた源頼政の五男頼氏が龍神殿垣内に落ち延びてきたのは治承四年(1180)頃、その後源頼氏改め戸野野頼氏となり刀をすてこの地を支配しました。
日がたつにつれて在郷の人々も清和天皇直系源三位頼政の五男頼氏を畏敬し館の建設へとなり、お屋敷跡は今も現存しています。そして、その子孫は今も龍神に在住しています。
龍神村は古から修験の地であり、文武天皇の時代(697〜707年)に大和国の修験者「役の小角」によって龍神温泉は発見されました。
そんな未開の地には京都、奈良をはじめとした立派な文化財は残っていませんが、祖先がこの龍神にも慎ましいながらもこの地の富を分け合い又は略奪しあいながらも文化財を残しました。
私はその文化財の一部を龍神フォーラムが出した「カード田辺市龍神村の文化財」に出会い、これをHPに掲載する事を思い立ちました。龍神村に興味をお持ちの方への一助となれば幸いです。
今後も今回掲載した以外の龍神村の文化財や自然等をお届けしたいと思っていますので、どうぞご期待下さい。
お万と維盛の伝説
屋島の陣をから衛門・嘉門の従卒と共に姿を消した平清盛の孫 維盛は高野山に辿り着いていた。亡父重盛が寵愛していた家臣滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を掌握している法印湛僧に平家側に加担するよう説得すべく田辺に密行しようとしていた道中、切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされ、同 宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好期をお待ち下され。」と諫言され、維盛は龍神小森に姿を現した。
この在所は治承四年(1180)頃、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約二里の場所に谷端を切り開き周囲50m程の屋敷を構えたのが寿永三年(1184)の四月であった。
在所からこのお屋敷へ食料や衣服を運び身の回りの世話をしていたのが十九歳の娘お万であった。「 画くとも及びがたき公達なり。」と称された維盛にお万が恋したのは自然だったでしょう。
寿永四年(1185)二月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗を靡かせ屋島に乱入した。法印湛僧は平家を裏切ったのである。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年四月頃であった。 維盛は山頂で護摩木を積み火を放ち行く末を占ったが、一条の煙は突如倒れ地肌を這った。地を這う煙は凶兆を示していた。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、お万に別れを告げ、屋敷を去り那智の瀧(海という説もある)で自決した。 維盛自決の報を知った従者衛門・嘉門兄弟は瀧から身を投げて自決した。またお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、清流に紅を溶かし最後には淵に身を投げ捨てました。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、現在も伝説として継承されています。(龍神村誌より)
平家に追われて源頼氏が落ち延びた四年後、屋島の陣地から脱走した平維盛が同地に一年余り居していたのは何かしら因縁めいたものや、その時代の息吹さえ感じます。それでは秘境龍神の世界をお楽しみ下さい。