『熊楠研究』第七号

編集後記

◇東京、田辺、関西の三つの地域でおこなわれている南方熊楠草稿資料翻刻のための研究会は、本書彙報欄に報告があるように、それぞれ月一回のペースでおこなわれ、メンバーも定着してきたようだ。実際に参加してみると、本誌の常連寄稿者の多い東京、地元の熱気を感じる田辺、そして大学教員と若手の院生が多い関西と、各研究会で特徴のちがいがあって楽しい。現在は、東京が一九四一年、田辺が一九一九年、関西が一九二六年の熊楠日記の翻刻を進めている。 ◇今後は、日記や書簡類など、数多い熊楠の未翻刻資料を公刊していくために、これらの研究会が中心的な役割を果たすことになると思われる。来年度開館が予定されている田辺市の南方熊楠顕彰館の事業とも連動していくことであろう。熊楠研究の新しい展開の中で、これまでの小誌の成果が十分に活用されることを願いたい。(松居)

◇雑誌の方は何も手伝わなかったので後記も辞退したいところだが、本号と前後して資料目録が刊行される。十年をこえる作業の推進兼督励係であった原田さんによる調査報告は次号に掲載の予定で、目録が出たあとも、原田さんにはまだ最終的なデータ整理と引渡しの仕事が残されている。 ◇中途までのなりゆきでは引き受けずにすむかと思っていた目録の編集は、七十の坂をこえた私には予想以上にきつい仕事であった。老化現象によるミスや独断で何度も関係者に迷惑をかけたが、原田さんのデータ・チェック、横文字に強い田村さん、最後を引き受けた古谷さんの支えがあって、大過なく完成することができた。公開のために役立つ道具となってほしい。 (飯倉)

◇調査の最後の日に、高山寺の南方家の墓に詣でた。前日は雪が降ったり晴れたりの荒天であったが、当日は清々しい晴天であった。調査をはじめたときは、「銀河計画」と呼ばれるほどの壮大な計画をたてた。それに比すれば、確かに実現化できた仕事は大きくはないが、この十三年間、生活を犠牲にして全力はつくした。墓前で仕事の報告をさせてもらった。 ◇なんというか、今になって、文枝さんの姿が思い出されるのである。考えてみるに、多分、文枝さんは人生の残り少ない時間を感じながら、遅々として進まぬ邸の資料の整理作業に、内心はいろいろな思いがあったかと思われるが、辛抱して何も言わずにじっとされていた。ありがたいことである。 ◇死者をして死者たらしめるものは、生者である。こんな私でも、そのことに思いいたすことになる十三年間であった。(原田)

◇栂尾高山寺で、熊楠が土宜法龍に送った書簡三十八通の新発見が、三月三十一日に発表された。十五年前の南方・土宜『往復書簡』などに収録の二十五通に、今回本誌でご紹介出来た新出南方邸所蔵書簡三通を合わせた既刊書簡を優に凌ぐ点数の熊楠自筆資料が出現したことになる。 ◇今回の書簡群が一つのカバンにまとめられていた状況などから、過去に刊行目的で選び出され、毛利清雅らが土宜から借り出した分の書簡は、結果として南方邸で保存され、今回発見の書簡はその際高山寺に残されたものという推測もあるようだが、まずは内容の正確な読解・紹介が待たれる。 ◇膨大な南方邸蔵書・資料は、昨年刊行の『蔵書目録』と、近日中に刊行の『資料目録』によって、その全体像が明らかとなる。両『目録』と、その南方邸資料を管理する「南方熊楠顕彰館」の発足が南方熊楠研究に画期をなすことは間違いないが、同時に、南方邸以外の場所で保存されてきた熊楠関連資料の紹介も、これをきっかけに進むことを期待したい。(田村)

[前へ] <p>  [次号へ] <n>

『熊楠研究』7号のページへ <b>

『熊楠研究』のページへ <s>

サイトのホームへ <0>