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《ミナカタ通信8号 (1997. 6.10)、第9号 より》

 合評会報告

 今回の調査中、4月2日午後5時半より8時まで、田辺市市役所の会議室にて合評会を行った。今年一月に刊行された『季刊 文学・一九九七年冬』(8巻1号、岩波書店)に掲載された、下記の二つの論文について行った。

  飯倉照平「『酉陽雑俎』の世界−南方熊楠と中国説話」

                 コメンテーター:松居竜五

  松居竜五「南方熊楠の食人論」 コメンテーター:小峯和明

 出席者は飯倉照平・川島昭夫・小峯和明・武内善信・
 千本英史・中瀬喜陽・原田健一・松居竜五・吉川寿洋

                  (記録・編集 原田健一)

【報告】飯倉照平「『酉陽雑俎』の世界−南方熊楠と中国説話」

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 (最初にコメンテーターである松居により論文の内容紹介がされた。以下、批判点からはじまる。)

松居  まず、最初に飯倉先生は『酉陽雑俎』を語るにあたって、「金剛三昧」についての話をもってこられています。この金剛三昧という人は日本人の僧侶で、八世紀に、故郷をすて、印度・西域・中国と大陸で、修行の遍歴をし続けたなかなか興味深い人物です。これについては東洋文庫で『酉陽雑俎』の注解をされた今村与志雄氏が解説のなかで、高楠順次郎の、金剛三昧は法道和尚ではないかという説を紹介しています。もちろん、この説の当否は別として、やはり金剛三昧について触れるなら、言及するべきではなかったか。というのはこれはただ、単に金剛三昧の正体という問題というだけではないものを含んでいるからです。段成式という唐の知識人が金剛三昧という和国の僧と会っている。それだけでなく、金剛三昧と一緒に山に登っている。また、段成式の周りには印度や西域の僧、あるいは道士といった多種多様な人々がいたわけです。そうすると段成式を中心に東アジアの知識人のネットワークがあったといっていい。また、そういうネットワークを生かしながら段成式は、『酉陽雑俎』を書いている。そこまで言っていいのではないか。

    つまり、この論文で最初に『酉陽雑俎』、あるいは金剛三昧のことが書かれているわけですが、もうひとつ弱いのは段成式自身がどういう立場で、どういう関心で、「唐代の知的パノラマ」といわれた『酉陽雑俎』を書いたのかということがもうひとつみえてこないせいではないか。これは今村氏が指摘していることですが、段成式は父親が宰相であったこともあって、そうしたネットワークを知りうる立場にいたわけです。しかし、同時に、段成式には「自分の書くものは小説にすぎない」とか、どこか世をすねたようなところがあったわけです。体制側からずれた所から世をみている。

    これを近代における熊楠の立場を考えたとき、似たシチュエーションが出てくるわけです。熊楠は近代における最大の帝国であったイギリスのロンドンに行く。そして、そこにはマージナルな知的な人々の集まる場所があったわけです。その意味で和国僧・金剛三昧は熊楠自身といっていい。また、唐代のそうした多種多様な人々の知的な交流から『酉陽雑俎』が生み出されたとすれば、近代においてロンドンの様々な人間との出会いの中で自分の学問を築こうとしている熊楠にとって、『酉陽雑俎』に深い関心を寄せざるを得ない、知的なモチーフがみえてくるのではではないか。

    つぎに説話の比較研究に関しては、簡単に触れることにしておきたい。57頁上段の「飛行機の創製」についてですが、これの初出は『東洋学芸雑誌』ではなく、"Notes & Queries" (10s.xi May 29) の "Flying Machines of Far East" なわけです。これはライト兄弟の飛行を受けて飛行の起源について、ヨーロッパで話題になったということがあるわけです。つまり、そうしたことを考えると『酉陽雑俎』の熊楠のなかでの扱われかたを考えるにあたって、熊楠の英文論考を視野にいれておかないと、全体像が掴めないと思うわけです。

    えー、説話の比較研究については、自分自身十分にこれについての準備がありませんので、逆に質問というかたちでさせていただきたいと思うのですが。熊楠の説話の比較研究は伝播という観点から、『酉陽雑俎』も引いているものが多いわけですが、飯倉先生ご自身はこの間の座談会では熊楠の説話の比較研究は独立に発生した方に興味があったのではないかという風に言っておられるわけです。つまり、そこらへんのところについてはどう考えているかということなんですが。

飯倉  まず、簡単にですが。「金剛三昧」についてですが、たしかに松居さんの観点では深く、考えていなかったわけです。えー、この間、高楠順次郎の説も含めて『月刊平凡百科』にそうした大陸に渡った僧のことについての論考が載ったのですが。まだ、このへんについては、資料を含めてよく見てみないと、うっかり書けないところでもあります。これは本にする時には、もう少し考えないといけないところですね。

    「飛行」のはなしですが、英文論考についてはある程度みてみたのですが、これはちょっと気がつきませんでした。

    それから伝播か独立発生かという、問題ですが。確かに、熊楠は『酉陽雑俎』の説を面白がって書いていますが。しかし、それ以上のものはなかったのではないかという、これはわたしの考えになります。これは本にするときには、もう少し他の資料も検討しながら南方の追求のしかたを考えないといけない。

    まあ、あまりわたしばかり話をしてもということで。

【金剛三昧について】

中瀬  初歩的な質問になりますが、南方邸にある『酉陽雑俎』は東京時代のものですか。

飯倉  あれには、東京時代に買ったと書いてあります。また、アメリカに送ってもらってます。それで持ってまわったわけです。

中瀬  その『酉陽雑俎』に書き込みしてある「金剛三昧は空海也」といのは東京時代ですか。

飯倉  ええ、字の古さというか、書き方からいうとアメリカ時代のものとちょっと違うので東京時代だと思います。

武内  わたしも金剛三昧についてはたいへん興味をもちました。それで気になるのは一八八八年六月二十一日の欄外に書かれた「金剛三昧を求む」という。これをどう読むかということなのですが。わたしのモチーフとしては熊楠はいつから、宗教学、仏教等に興味をもったかということがあります。東京時代の蔵書目録によるとまだ、宗教学関係のものはあまり買っていない。やはりアメリカ時代からなのです。そうすると、この「金剛三昧を求む」というのは放浪への志向と、仏教を究めるということがあると思われるわけです。

    それとの絡みで、これはもう少し後になりますが、マックス・ミュラーへの批判のことがあって。熊楠にとって論敵として大きかったのではないかと、わたしは思っているんですが。日本の仏教学者がやられたりということに熊楠は憤慨していたということが、あるのではないかと思うわけです。

飯倉  ああ、なるほど、しかし、もしかしたら、熊楠は英文のも含めて仏教について体系的に勉強したのはロンドンに行ってからではないですか。

武内  いや、『珍事評論』の第二号、第三号と仏教論を展開しだすわけです。ですからアメリカ時代に下地があって、ロンドンで土宜法竜とやりあうことになるわけです。

    実は今日、ちょっと蔵でその日のところを見たのですけど、墨の色が違うんです。だから、その日に書いたというより後で書いた可能性があります。ただ、その日に書く理由があったわけでしょう。

飯倉  アメリカ時代というのは植物採集をしながら、これから学問的にどうしていこうかということを考えていたわけで。そこで仏教に深く関わっていくということがある。

武内  それにしても少し早い。ランシングに籍をおいて、アナバーに行っているときですから。本格的にはアナバーからですから。もちろん、これが関心のもちはじめかもしれない。

千本  この「金剛三昧」は人物の名前ですか。普通に考えれば、金剛三昧経とか、金剛三昧という境地ではないですか。

小峯  「求む」という語法はちょっとひっかかるなあ。

千本  「金剛」も「三昧」という言葉は仏教では極めてポピュラーな言葉ですから。やはり境地として受け取るほうが自然ではないですか。もっともまあ、金剛三昧という名を自分でつけるということ自体が、よくつけるなあという名なわけで。ちょっとあまりの名に恥ずかしいというか、フフフ。

松居  うーん、だけど、金剛三昧という境地を求めていたにしても、「金剛三昧」という人のことが頭の端にあったというべきではないかと思いますが。

飯倉  『酉陽雑俎』の「金剛三昧」の書き込みが何時かという、時期を含めて検討する余地があるかもしれませんね。

【「比較」とは何か】

小峯  すこし説話の比較研究という問題について、いくつか気になることについてですが。飯倉先生の今回の論文では「四 説話の比較研究」と「五 昔話の忠実な記録」というのが方法論上かなり違ったもののように受け取れる。つまり、比較研究の「比較」とは何かという問題です。例えば、この話とこの話が似ている。あるいはこの場所の話とあの場所の話との関係ですね。そういったいろいろとつながっていく面白さです。これは熊楠の説話研究のやり方であるわけです。しかし、現在こうしたことにもうどどまっていいわけではない。説話の背景にある構造の問題であり、文体であり、表現の問題であるといった具合にもっとつっこんでいっていいのではないか。

    また、「忠実な記録」というのはどういうことなのか。つまり、それは漢文で書かれているわけですから、まず、しゃべられた口語との関係ですね。口語と筆記された文字との違いですね。あるいはその口語はどんな中国語なのか、中国語以外の言語を含めてですが。どういうレベルで忠実なのか、ということが言われていいわけです。また、そうしたことを含めて、地域性と時代性が比較する場合、考える必要がある。

    あと、『酉陽雑俎』の受容の歴史というのが気になります。それはわたしは知りませんので、教えていだければと思います。

飯倉  受容の歴史というのは今村さんがかなり解説で書いています。今村さんは、熊楠のようにちゃんと扱ったのは例外だということなのですが。

松居  今村さんのは少し、熊楠の意見を受けすぎているようにも思えるんですけど。

飯倉  ええ。たしかに、和刻本もあったわけですし。『和漢三才図会』にも『酉陽雑俎』は多く引かれているわけですから、はたして熊楠の言っているとおりかどうか、もう少し考えないといけない。

千本  あのう、たとえばですね。今、説話研究では語られる場の問題なんかが重視されてきているわけです。わたしもそれを繰り込んで説話の問題を解こうと考えているわけですが。こうした場合、小峯先生、熊楠のやり方をただ、現在の問題意識から否定しようというわけではないでしょう。しかし、現在どう我々はこれを扱ったらいいのか、というあたりはどうでしょうか。

小峯  うん? いや、それはわたしが飯倉先生に質問しているわけです。ハハ

    いやいや、質問者は自分の身の安全を確保してから発言しなきゃいけない。

一同  (爆笑)。

小峯  えー、忠実な記録というのはどういうレベルの意味ですか。

飯倉  たしかにそこらへんは。たとえば「シンデレラ譚」について独立に書こうとすれば、その後の精密な比較の研究もあるわけでそこらへんも触れなければ十分でない。ただ、この場合、忠実というのは昔話の構成というか。物語のしくみといいますか、それが昔話のしくみをもっている。唐以前には、『酉陽雑俎』にはそうしたものがない。なんというか、そうしたものはそれを記載した文学者がかなり自分の物語に作り替えているものが多いわけです。

千本  そうすると先生のおっしゃっているしくみというのは、プロットの比較の問題ということになりますね。

小峯  61頁上段の「現代の採集記録としても通用するほど、昔話の語り口に忠実なものです。」のところですが。「語り口」というと表現論のレベルが入りますから、言い過ぎることになるわけです。

飯倉  なるほど、そうですね。

【熊楠にとっての『酉陽雑俎』】

飯倉  たしかに、熊楠はシンデレラの話にしても、中国にあるこの話と似ているというところで、事足りてしまっているところがあって、果たしてどこまで比較をつきつめようとしたかという。熊楠のモチーフが問われるところがあるわけです。

川島  えー、ちょっと気になることですが。たとえば、「動物の保護色」なんかでも、『酉陽雑俎』を引いて先に中国人が知っていたということを書くわけです。要するに、これはプライオリティを主張していると理解していいわけでしょう。とかく、熊楠はこういうことを言いたがりますよね。

飯倉  ええ。

川島  その意味でそうしたことを熊楠が言うために、『酉陽雑俎』をモチーフに分解して、引き出しのようにして利用している。しかしですねぇ、『酉陽雑俎』そのものの紹介はしようとはしていないわけです。そこにロンドン時代の熊楠のある屈折したモチーフがみえるわけです。なぜ、これを東洋のひとつの精神の精華として、全体像を提示しようとしなかったのか。そこに屈服がなかったかということなんです。まさに、西洋人に対して東洋というものを現すのに、事実の引用に『酉陽雑俎』は徹しさせているわけです。また、その点ではまさに自家薬籠中のものなわけですが。どうも、後ろにひいているものがある。しかし、日本に戻ってしまうと、そうした屈折したモチーフがじょじょに消えていく。という‥‥

飯倉  これはなかなか難しい問題ですねぇ。松居さんの論文との絡みもありますから。また、あとでこれについては議論があるでしょう。

吉川  『酉陽雑俎』というのは、日本でいうとどういうものでしょう。『嬉遊笑覧』に似たものでしょうか。

飯倉  そうですねぇ、似てはいますねぇ。唐代に著者の意識がかなりはっきり出てきて新しいことを、そうしたいろんなはなしを集める、本にするということが出てくるわけです。そこらへんに当時の知識人の自負というかそういうことが出てくる。さっき松居さんが言ったことが出てくる。

原田  えー、時間もありますので。ここらへんで、松居さんの論文に移ることにしたいと思います。 

【論文の紹介とそれへの返答】松居竜五「南方熊楠の食人論」

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小峯  簡単なメモですが、これをもとに進めたいと思います。

    まず、論文の構成は「1 論文の構成」に示した通り、五つの章に分かれています。これを内容的に追っていきますと。この論文では、南方熊楠は食人という問題を扱っているわけですが、これを熊楠の生涯における学問の展開のなかで、どう捉えることができるか。また、熊楠がこうした問題に取り組んだ当時の学問状況はどういうものだったのか、という二点がポイントになる。

    まず、「2 熊楠「日本の記録に見る食人の形跡」の経緯と基底」で示したようにこの論文は熊楠のロンドン時代から田辺時代をつなぐ那智時代に書かれたものだということです。この時代には他にも、「日本のタブーシステム」「燕石考」等があります。これらは、「燕石考」翻訳されていますが、基本的には未発表なわけです。この那智時代は英文論考から日本語の論考へという転換点にある。内容的にも社会と身体の周辺領域の問題であり、後にこれは残酷さと猥雑さへの問題につながっていく。

    また、「5 熊楠の論考の変容と展開」の問題と絡みますが、第一稿と第二稿との違いですね。改稿における差違がどうなのか。この論文の場合には第二稿しかないわけですが、他の例えば「燕石考」の場合との比較を通して考えてみるということもあっていいわけです。後の『十二支考』なんかも、すでにある論考を改稿していっている部分もあるわけで、内容は変わらなくても資料の整理のしかた等に違いがでてくる。

    それから、英文と日本語文との違いですね。この時期本格的な論考が多いというのはその通りなわけですが、それが英文であることで成り立っているわけです。これは後の日本語文の、奔放な文体とどう関わり、関わらないのか。文体的な問題が論考の性質に反映しているのかどうか。といったことが気になる。

    また、この英文論考を日本語文に翻訳するということはどういうことなのか。これをこのまま訳していいのか。例えば柳田国男宛書簡で訳した「神跡考」の例があるわけですが、翻訳者として英文論考と日本語に移す場合、どう熊楠の臭いを翻訳文として出せるかということが、翻訳の質として問われるのではないか。

    ここで、もう一つの軸である同時代において「食人」の問題がどう扱われていたかをみますと、なぜ、「食人」が問題として浮上したのかという。もちろん、モースの研究もあるわけです。これが前提になっているわけですが、文化としてのカーニバリズムという問題ですね。もちろん、サクリファイスのことと食人は絡んでいるわけです。しかし、これが、十九世紀に問題になった背景には、「未開と文明」というテーマがあったわけですし、そこには植民地の問題、近代化から国民国家論という問題にまでリンクする文化政治的な知の配置がある。これに対して熊楠はどうむきあったのか。あるいは他の論者はどうだったのかという点に関しては、今回の松居論考で興味深く読ませてもらったわけです。

    そこで、熊楠の文化相対的な議論がはたして、ただ日本に食人があったという事実だけを示して事足りていたのか、どうか。「6 熊楠の限界と可能性」に書きましたが現代の学問の蓄積からみて、熊楠の方法の限界をつくのはたやすい。しかし、それだけで終わっては意味がない。もう一度、そうした点をふまえたうえで、熊楠のやったことの意味、食人論の意味を考えたいと思うわけです。

松居  まず、改稿の問題ですが、これは最初に『ロンドン抜書』に抜き書きすることから始まるわけです。そこから論文が立ち上がります。また、『十二支考』につながっていく問題は熊楠の論考全体とのなかでみえてくる問題でしょう。ただ、この「食人論」に限ってみた場合、第一稿はないのですが、第二稿は二つありますので、この二つの違いについて十分に検討されていないと言わざるをえない。これについてはもう少し留意する必要がある。

    それで、先ほど本格的な論考と英文ということが結びついているのではないかという指摘があったのですが、これについては必ずしもそうではないのではないかと思っています。えー、ロンドン時代、熊楠は基本的には英文でも比較的、短文のものを書いていたわけです。これは先ほど、川島先生がおしゃっておられた問題提起と重なるわけですが、熊楠は英文の論考を書くとき、必ずすでにある議論のなかでものを言っていたわけです。その意味で熊楠はロンドンの知的な世界で東洋人として、その知的なサークルのなかでひとつの役割をふられていたわけです。また、その役割を果たすことで書いたものを載せてくれていたわけですし、また評価もされた。ところが、ロンドンから日本にもどってみると、そうした知的なサークルはまわりにはありませんでしたし、自らも森林の世界へ踏み入ることで、そうした世界から離れていく。そのなかでもう一度、すべてを問題設定から、足場のないところから自分一人で組み立てていくことになる。「曼陀羅論」を土宜法竜に書く時期でもある。そこにたいへん密度の濃い孤独とそれゆえの高揚感もあったのでしょう。えー、そうした過程をへて、「食人論」が再び、浮上した日本語の論考は「人柱の話」になるわけですから、そこの比較をぬかったというとそうなります。

    ちょっともどりますが、英文から日本語の文に移るプロセスになにがあったかという問題ですが、これはいろいろな考えがあるわけですが、ひとつには神社合祀反対運動があったのではないかと今は思っています。つまり、熊楠は森から出てきて、社会にコミットすることになるわけですが、その接点が神社合祀の問題になる。まさに森の問題がそのまま社会に直結するわけです。実際に熊楠が日本語の文章を書く場所は地元新聞ですし、最初はそうしたメディアで書いたものの方が多い。こうした地元新聞では必然的に書いて、誰が読むか、読まれてどう反応がくるのかとういうことが、すぐに出てくる。また、それが熊楠のなかで意識されているわけです。応答性といえば同じなわけですが、そこでは今までの知的なサークルの人たちと違った顔がみえる。もちろん熊楠は終生、この違った二つの顔を見続けるのですけど。

    ごめんなさい、ちょっと先に進めます。その、食人が文化のなかでどういう位置づけにされているかという問題なんですが。ロンドン抜書にこうした問題が多く引用されている。これにはロンドンでの精神状況もあるでしょうが。男色の問題、残虐な人間の行為に対する熊楠の興味といったことの根底には文化から逸脱するということへの興味がある。

    そこで、ロンドン時代の興味と日本にもどってきて、日本の知的な人々のサークルと関わった時、そうした熊楠的な興味・好奇心がロンドン時代と同じようでいて、少しずれがあったかもしれない。先ほどの「人柱の話」には柳田国男が影響しているわけです。食人論には明らかに寺石正路との交流がある。しかも、熊楠は食人や、首塚といった文化における残虐性といった問題では、「郷土研究」を舞台に、柳田国男を対立することになっていくわけです。そして、熊楠は寺石正路や、あるいは宮武外骨といった人たちと組んで柳田国男と対抗しようとする。そこで、「人柱の話」が出てくるということがある。

    どうも、だいぶとりとめない話になってしまいましたが、『ロンドン抜書』から英文論考、そして日本語の論考へという問題にはそうしたさまざまな知をめぐる環境の違いが考えられる。また、そのことが熊楠の文章に表れていると考えるべきでしょう。

小峯  先ほどの英文によって、論の骨格が作られたのではないかというのは、英文に限りませんが、外国語を用いることで書くとき、日本語が相対化されないかということです。

松居  ええ、確かにそれはあると思います。自分でも英語を書くときはかなり考えを整理してから書きますし、またそうでないとなかなかうまく書けないということがあります。

【カニバリズムの取り扱いについて】

原田  それでは少し、質問がありましたら。

川島  現在、カニバリズムは人肉嗜食と訳されていて、例えばアンデス正餐といったような極限状況での食人はカニバリズムと言わないわけです。これをなぜ、熊楠は分けなかったのか。もちろん、現在の学問水準で言うのはたやすいわけですが。当時でも、えー、誰でしたっけ、タイラーですか、「ヨーロッパ人は__は認めているが、食人は認めていない。」と言っていますが、その当時でも、人の肉を食べるということに差違、区分けを行っていたわけです。

    松居さんは文化からの逸脱という観点から論点を出されているわけですが、しかし、その逸脱にも違いがありはしまいか。松居さんは逸脱として、熊楠における食人や男色を上げたわけですが、食人というのは、当時のヨーロッパの帝国主義的な状況では、食人を行った人種というのはひとつのスティグマ――まさに「未開と文明」という二項対立のなかで、「未開」「野蛮」という消えぬスティグマを押されるわけです。しかし、男色は彼ら、ヨーロッパ人の故郷たるギリシャ文明とつながる。そこには大きな違いがある。それなのに、熊楠はあえて日本人に、文明から見放された人種たるスティグマを押そうとする。

松居  そうですが、必ずしも「食人」即「未開」というわけではないと思うんです。例えば、中国人は明らかに食人をしていたわけですし。

川島  うーん、なるほど。これはわたくしの議論をくつがえしますねえ。

一同  (爆笑)

原田  どうでしょう。先生のおしゃっていることは確かにそうだと思うのですが。「食人」と「食人を語る」をことをわけてみてはどうでしょうか。例えば、少し時代がずれますが、熊楠と同じように柳田国男も食人と語っているわけです。『山人考』では食べるものがなくて、父親が子供を殺して食べるわけです。これはひとつの事件なわけですが、そうした飢餓状況のなかでの食人を柳田は語ることで、日本人の民族の底に眠る神性のありようを描こうとする。人を食べるという物語に仮託しながら、そういう物語を生成することで、食人という負のもののなかになんらかの意味を見出そうとする。もちろん、これは柳田の論点ですが。しかし、それをアジアにおける近代化――植民地の危機というひとつのコンテクストのなかにおいたとき、案外、熊楠のモチーフとつながるものがありはしないでしょうか。あえて残酷さを語るという。

川島  なるほど。たしかに原田さんの言うとおりかもしれない。しかしですね、熊楠は「食人論」に使った資料をもとに全く逆の結論、食人はなかったという結論を導き出せたのではないかとも思える。つまり、なのに、あえて、食人という結論にいたった理由ですね。

    熊楠はこの論文で引用数を数えていますが、だいたい熊楠が引用数を数えるときは勝負しているときなわけです。熊楠の自負はヨーロッパ人に先だってあらゆる文献を使いうる立場にいるというのが、こうした論を構成させる意志にあるわけで。勝負した形が、なぜ内容的に負なのかという。

松居  たしかに、そこには根深いものがある。どう考えても熊楠だったら、食人という方へいくだろうなというのがある。

【食人とキリスト教、あるいは神道】

千本  中世に『神道集』というのがあるのですが、そこには綏靖天皇が毎日七人づつ人を食べているんですが。

一同  (笑い)

千本  熊楠はこれをもっているんですが、横山さんのですね。この論文を書いたときには持っていなかったみたいですし。そこの部分には何の書込もなかったですねえ。ぼくはもうちょっと、熊楠の食人論は神道に絡むのかと思ったのですが。ヨーロッパではキリスト教と食人論は密接に絡んでいるわけですし、熊楠のなかでの民俗の根というのはどうだったのか。

    スカトロジーはどうですか。

川島  本はもっていますが、読んでませんね。当時、「逸脱」という言葉はなかったですが、「変態」という言葉がありました。これは宮武外骨とかですね、ひとつのムーブメントを形作ったのですが、そのなかでもスカトロジーは極めて少ない。

千本  ラブレーについてバフチンが論じていますが、食人とスカトロジーというのは反キリスト教ということがあるんですが。うーん、そこらへんのところを熊楠はどう考えていたのかなあ。

原田  どうでしょう、それは器と中身の問題と関係はありませんか。この熊楠の「食人論」は論の構成を『エンサイクロペディア』に書かれた構成によって書いているわけです。『エンサイクロペディア』というひとつの公式で書いているわけで、はたして熊楠が食人を書くにあたってその公式がモチーフにあうものだったのか。熊楠が書こうとしている食人と、ヨーロッパにおける食人を論じる時の前提の違いが、熊楠のなかで十分処理されていたのか。

飯倉  書き始めの意志とは別に、最後は熊楠が意志をもって放棄したということがあるわけだ。そこらへんをもうすこし、見ないといけない。

吉川  やっぱり熊楠の食人の論拠は弱いですなぁ。

原田  だいぶ時間もオーバーしましたので、えー、話はつきませんがここらで終わりにしたいと思います。

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