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◆永昌山(えいしょうざん)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「坂根」(昭和27.1)を使用したものである

所在:西粟倉村大茅(おおがや)
地形図:西河内/坂根
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約840m
訪問:2026年6月

 

 大字大茅の北東部、吉野(よしの)川上流部にある。

 当地については資料『鐵のふるさと』が詳しく、著者によって非常に丹念に調査されている。以下、主要な部分を大まかに抜萃。

 永昌山での鉄山の起源は定かではないが、経営については元禄12(1699)年の播州の千種屋源兵衛・伊木屋次郎吉・鳩屋によるものがもっとも古い記録。以後経営者は度々の変遷を経て、最後は明治20年から30年まで大原町の田中勝三郎の経営となっている。

 明治9年当時の鉄山の規模は、鉄坑場(砂鉄を含んだ土砂を採取する山)が大茅村側に5箇所、中谷村側に1箇所の計6箇所。炭焼き場35箇所。製鉄所・たたら・元場・水車・表長屋・炭納屋が各1箇所、鍛冶場3箇所、土蔵2箇所。ほか従業員住宅多数。

 砂鉄採取では、山肌を削った土砂を「鉄穴(かんな)流し」と呼ばれる水路に流して砂鉄と不要な土砂を選別する。土砂は当初川沿いに堆積させて田畑を造成していたが(「たたら新田」)、長い歳月のうちに下流の川底を埋め、耕地へ流入し、さらに鉄分による用水の汚染・高瀬舟の航行への支障といった様々な公害が起きるようになった。
 明治13年9月の大水害を契機に、大茅村や下流の農民が結集して郡長に鉄山の閉鎖を陳情。また大茅村では臨時議会を開き、鉄山経営者から鉄山借区切替願の拒否する決議をした。
 明治20年代末期、公害や外国からの鉄の輸入により、閉山に至った。
 閉山後は従業員が次々と下山したが、燃料用の製炭に従事していた人々は鉄山跡の植林を行う業者に雇われたり、住宅に残って製炭を続けたりした。

 植林を行う業者に雇われた人物の妻(釜本氏。明治40年生)に、著者が聞き取りを行っている。話によると、嫁いできた大正10年頃にはたたらの建物は既になかったが、住宅が10数軒残り、10世帯ほどが生活していたという。植林会社は4回ほど変わった。
 集落には「影石尋常小学校鉄山分校」があり(※)、夫も通った。数人ほどの児童が在籍していた。
 釜本家は昭和11年に転出。植林会社事務所の人を除く住民としては最後であった。最後は植林会社の山番であった島村氏で、事務所を閉鎖したのち鳥取県に転出。これをもって、鉄山の生活史は完全に終止符を打った。

 また筆者作成の昭和初期の住宅図(明治21年の土地台帳を下地に、昭和初期の村役場の聞き取り調査および釜本氏への聞き取りを参照したもの)には、加治・村下・村下・釜本・釜本・(不明)・釜本・釜本・(木桶作りの人)・釜本・手槌・手槌の各世帯、ほか静合名会社大茅山林事務所や木小屋・墓地などが記されている。

※ もとは著者が「山陽新報」から得た情報。村誌・郡誌などといった資料に記載がなく、村教育委員会でも存在を把握していなかったため、貴重な証言といえる


 現地では、右岸で事務所跡(製鉄時代の旧元場」)が見られ、左岸では宅地や施設等の区劃の石垣が広く見られた。橋跡の袂には当時の石仏が今も残り、また集落内には金屋小神の小祠(写真9)が祀られている。

 


写真1 事務所跡

写真2 同

写真3 説明看板

写真4 石仏

写真5 集落風景

写真6 屋敷跡

写真7 平坦地

写真8 何かの跡

写真9 小祠

(写真10 集落手前の道標を兼ねた石仏。「右ハやま/左ハ■かさ■」とある(■は判読できず))

 

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