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◆西餅屋(にしもちや)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「諏訪」(昭和33.9)を使用したものである

所在:下諏訪町(大字なし)
地形図:霧ヶ峰/諏訪
形態:谷沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約1,280m
訪問:2025年11月

 

 町の北部、砥(と)川右岸側にある。江戸(日本橋)と近江(草津)とを結ぶ街道・中山道の道中にある。和田村との境である和田峠の下にある茶屋集落。

 町誌によると、江戸時代初期、中山道が整備された際に下諏訪宿から中山道の難所和田峠に設けられた休憩所のひとつで、諏訪藩では扶持を支給して旅人の便を図らせたという。下諏訪宿から和田峠までの間には、落合・樋橋にも茶屋が設けられた。また峠を越えた先(和田村)には東餅屋がある。
 集落の4軒(※1)は茶屋が本業であったが、明治時代には米作・養蚕・薪炭生産を行い、武居家では蚕種の生産も成功させた。
 明治初年には交通が寂れ生活環境が一変し、筑摩県に対して薪山の払い下げを願い出ている。しかし明治10年前後から諏訪の製糸業が盛んになり、繭や諸物資の輸送と旅人の往来が再び活発となって、4軒の茶屋は繁盛し、生繭時には昼夜兼行で小荷駄馬・荷馬車が続いた。中でも犬飼家・武居家は西餅屋のお茶屋として名を知られ、名物の力餅で盛んに客を呼び止めた。
 当時は荷馬車が武居家に3台、小口家・小松家に各1台あり、小荷駄馬も犬飼家・武居家に2頭ずつあって、中央線開通までは小松家は下諏訪局に送る小包便の中継所であった。
 明治10年、和田峠が古峠路からひとつ南の鞍部である紅葉橋軽油の新道(現在旧道と呼ぶ)へ移り、明治29年にはさらにその西斜面に新道(現在の国道)が開鑿された。明治35年12月篠ノ井線が塩尻まで開通し、また同38年1月中央東線が岡谷まで開通し、和田峠路の交通は完全に廃れた。
 人馬の通行に生計を依存していた
東餅屋・西餅屋はいち早く活路を他に求めた。西餅屋では、明治30年頃小松家が留守居を残して矢木崎(※2)へ下って雑貨穀商(のち竹細工)を営み、同37年初頭に小口家が売家広告を出し、その翌年上諏訪へ下って宿屋を始め、大正4年に犬飼家が町内友之町(とものまち)へ下り、大正13、4年最後に武居家が町内菅野町(すげのまち)へ下って宿屋を始め、西餅屋は無住の地となった。
 明治初年4戸24人(「諸差引扣帳」記載)。

 なお元治元(1864)年、攘夷を訴えるため京都へ向かっていた水戸浪士が和田峠を越え、幕命を受けた松本藩・高島藩がこれを迎え撃った(和田嶺合戦)。この際に浪士の拠点となるのを防ぐため、東餅屋5軒のうち3軒、西餅屋4軒すべてが藩により焼き払われている(武居家の土蔵のみ残った)。のち東餅屋・西餅屋には高島・松本両藩から見舞いがあり、金銭・白米・味噌が届けられている。

※1 資料『下諏訪町の文化財』によると、4軒は小口家(本陣)・武居家(武屋〔ただし町史では「竹屋」〕)・犬飼家(ひのや)・小松(小松屋)(括弧内は屋号)
※2 下諏訪の市街地

 資料『下諏訪町の埋蔵文化財』では、小松家の屋敷跡と蚕室跡が昭和51年の国道拡張工事のため道路用地となることが触れられている。

 現地は旧街道に沿って段々の土地になっており、茶屋の跡地がそれとなく分かる。集落北側では石塔や墓地が見られた。墓地では先述の4軒の姓が見られた。また国道を挟んだ南側は農地跡であったよう。道脇には江戸より53里の一里塚もあるが(写真2)、これは後年に復元されたもので旧来のものの位置は特定されていないとのこと。
 以下は現地の看板より。


下諏訪町文化財
 西餅屋(にしもちや)茶屋跡

西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留(こくどめ)番所が置かれた。幕末の砥沢口(とざわぐち)合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。

昭和四十五年九月十六日 指定
 下諏訪町教育委員会

 


写真1 農地跡

写真2 一里塚

写真3 屋敷跡(小口家?)。右に説明板と茶屋跡の標柱が見える

写真4 小松家跡の一部?

写真5 遺構

写真6 屋敷跡

写真7 屋敷跡

写真8 牛頭天王と道祖神

写真9 墓地

写真10 墓地

 

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