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◆四徳(しとく)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大河原」(昭和27.9)を使用したものである

所在:中川村四徳
地形図:鹿塩/大河原
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:下村―約800?〜830m 寺村―約840〜860m 小河内―約860〜950m? 中村―約870〜930m? 大張―約920〜990m? 平鈴―約990〜1,110m?
訪問:2025年11月

 

 村の北東部、四徳川とその支流沿いにある。
 昭和36年の梅雨前線に伴う豪雨(三六災害)により潰滅し、全戸が移住した。

 訪問時は小地区の別(後述)や細かな住宅の位置を把握しておらず、移転後の航空写真のみを手がかりとして県道沿いを中心に探索をしたに留まった。
 各地でいくらか家屋の痕跡が見られたほか、寺村では寺院跡、中村では学校跡と神社、大張では四徳温泉キャンプ場(休業中)や墓地・石造物群が見られた。中村と平鈴には地形図で記念碑の記号が見られるが、前者は四徳学校跡の碑と災害移住記念碑、後者は「ふるさと平鈴」の碑。
 災害移住記念碑によると、地区別の移転者は以下のとおり。

・下村…小沢3・小松3・湯沢2、塩沢・高松・藤川各1(11戸)
・寺村…小松5、小沢・湯沢各1(7戸)
・小河内…小松4・宮下3・小池2・小林2、加藤・藤川各1(13戸)
・中村…小松17、有賀・小林・竹村・三好・村沢・村串各1(23戸)
・大張…小松14、塩沢・仁科各1(16戸)
・平鈴…小松4・小椋3、青木・小林・仁科各1(10戸)
・災害前移住…小沢2・小松2、秋城・有賀・小林・平沢各1(8戸)

 資料『望郷・四徳の里』(引用する論文も含む)によると、概ね下流より、下村(しもむら)・寺村・小河内(おごうち)・中村・大張(おおばり)・平鈴(たいらすず)(※) の小地区に分かれる。中心の中村には、学校・神社。農協支所などがあった。

※ 読みについては、下村・小河内は橋梁の銘板より(下村橋・小河内橋)。大張・平鈴は本文のルビより

 以下は災害前の家々(屋号。表に記載された番号順)。なお地区の分け方が異なるのか、移住記念碑の戸数とは異なっている。

・下村15戸(銭屋・はじめ屋・大下・志茂・下能徳・塩屋・大下垣外・勝城・釜鳴屋・中島屋・上仙・上橋詰・米垣外・下垣外・かじま)
・寺村14戸(下米沢・上米沢・小下垣外・橋場・鳥羽・西・南・河原・北垣外・藤川屋・恵比寿屋・正木屋・村沢・新宅(下垣外))
・小河内12戸(渡合・楮畑・下小河内・中小河内・上小河内・日影・旭屋・清水屋・下黍平・中黍平・上黍平)
・中村20戸(除・宮脇屋・宮の前・橋垣外・新屋・石原・梅沢・中村日影・下菅沼・山口屋・上菅沼・桂屋・辻本屋・金田屋・丸美屋・竹屋・中屋・沢屋・新屋敷・伊豆屋)
・大張19戸(下栄家・上栄家・田中・西・清水・垣外・長久屋・中垣外・加見・高垣外・久保垣外・新谷・大畑・亀屋・栄屋・番場・出口屋・泥久保・山喜屋)
・平鈴11戸(吉原・古西・吉野屋・萬屋・万寿屋・和手・東・近江屋・塚本・羽場・屋敷)

 寺村にあった寺院は寛永17(1640)年開山の曹洞宗長久山福泉寺で、大草の常泉寺の末寺であった。

 昭和36年6月末、梅雨前線に伴う豪雨が発生。四徳では27日の午後が中心となった。
 四徳では死者・行方不明者7人、当時の84戸中家屋の流失および全壊52戸、半壊9戸を数え、学校・農協支所・診療所・寺院も流失・半壊の被害を受けた。また耕地は3分の1が失われた。
 当初、住民の多くは四徳の再興に力を入れてきたが、復興もままならぬ状況に四徳での生活に不安を抱き、安全な地域への移住を考える人が増加していった。度重なる協議の結果、昭和37年6月、国の「集団移住臨時措置法」の適用を受け、全戸移住を正式に決定。
 移住は昭和37年3月頃から始まり、仮設住宅が建設された駒ヶ根市原垣内に25戸、松川町清泉寺に5戸、宮田村大久保に10戸が集団移住したほか、個別で駒ヶ根市に33戸、伊那市に5戸、宮田村に4戸、飯島町に3戸、飯田市・塩尻市・喬木村・神奈川県にそれぞれ1戸。昭和38年3月までに移住は完了した。

 主な生業は養蚕・製炭・自給用の農業などであった。
 養蚕は明治から大正にかけて盛んとなる。それまで山仕事と零細な農業が主であったが、山畑は桑園に変わり、次第に養蚕の集落へと転換していった。資力のある家では、これまで水田であった比較的恵まれた平地にも桑を植栽した。
 のち繭を自ら生糸にして利益を高めるため、製糸工場が設立された。明治38年頃、倒産した工場の施設を買い取り「〓南向生糸販売組合」(※ 〓は○の中に一)を設立。最盛期には四徳村内の繭だけでは不足するようになり、近隣の地区から組合員を得て大量の繭を搬入した。また工女も、県外などからの出稼ぎを雇い入れていた。
 製炭については、四徳は良質のクヌギ・ナラ等が豊富な山林に恵まれており、長らく冬期の副業として行われた。明治40年頃に飛騨地方の製炭業者が入り、四徳でこれまで行っていたものとは異なった製法で炭を大量に焼いた。住民はこの製法を取り入れ、本格的に製炭に従事する者が増加した。また大正末期から昭和初期にかけて県の指導が入り、さらに高品質の木炭が生産された。
 山畑では、自給用の芋類・豆類・蔬菜などを栽培。
 江戸時代には、葉タバコの生産地の一つとしても知られていた。四徳産は品質が優良で、将軍家などへ献上され「峠葉」として珍重された。しかしその後伝承されることなく絶滅してしまった。
 昔は四徳の山中に相当数の木地師が住んでいた。その多くは地方へ移住したが、明治15年に屋号「きじや」の祖先となる小松氏が平鈴に定住している。

 四徳鉱泉は、集落に残されている古い文書等によると、起源は元亀元(1572)年。現在の湯ノ沢の山で草刈りをしていた農民の一人が、沢で水を飲もうとした際に硫黄臭のする源泉を発見したというもの。その後山の所有者が、当時この地方の支配者であった武田信玄より開湯の許可を得た。後年、支流にも硫黄泉が発見され、四徳鉱泉の全盛期には「下の湯」として利用され賑わった。
 本格的に湯治施設ができたのは明治末期から大正初期頃。最初に四徳鉱泉を経営したのは中村の小松氏(屋号・金田屋)で、「上の湯」の湯釜より引湯し鉱泉旅館「湯元館」を開業した。
 小松氏の経営は15年続き、その後を受け継いだのは大張の小松氏(屋号・大畑)で、湯釜のすぐ下の沢を整地し「元湯館」を開業した。
 経営は10年続き、再び小松氏(金田屋)が経営を引き継ぐ。
 その後は資料がなく不明であるが、昭和14年頃から大張の小松氏(屋号・出口屋)が引き継いだ。なお鉱泉は、昭和に入ると四徳区の委託経営の管理人による経営が続いていたが、終戦後は中川村の健康保健組合傘下の療養所となった。
 昭和18年頃から出口屋の娘婿である平鈴の小松氏(屋号・東)が経営した。昭和36年の豪雨(三六災害)により潰滅。
 「下の湯」では、大正末期に隣の中沢村(現在の駒ヶ根市)の小松氏が、湧出場所のすぐ下の平坦地に「玉屋旅館」を創業。しかし10年ほどで廃業した。
 近年は村の施策によって跡地は整備され、「上の湯」の湯釜からは桑原の「小渋湖温泉」まで引湯されている。また「下の湯」は、村おこし事業の一環として、平成6年6月より大張に設置された森林体験館の湯船に引湯されている。

 なお当地にあった学校は、中川東小学校四徳分校および中川東中学校四徳分校。

 資料『南向村誌』によると、小学校は明治6年福泉寺に開設し、明治7年校名を三楽学校とした。明治22年南向尋常小学校の分教場となる。明治35年5月1日独立し、四徳尋常小学校となる。明治41年4月1日、南向尋常高等小学校の分教場となり、昭和33年に中川村となるまで分校として続いた。昭和33年8月、中川村が発足し中川東小学校四徳分校となる。昭和38年7月31日、最後まで残った児童1人が転出したため閉校。
 中学校は、昭和22年南向中学校四徳分校として開校。
 なお分校内において、農事休みの間だけ季節保育所が開設していた時期がある。
 三六災害では、校舎半壊、校庭埋没・一部欠損、給食室流失、教員住宅2棟流失、備品施設流失。小学生は体操場に間仕切りをして授業開始、中学生は大草に応急宿舎を設けて本校で授業を開始した。

 四徳神社は、明治41年諏訪明神に七十五社・山神・湯の宮権現・浅間山・三ッ森(秋葉森・津島森・吉田森)を合祀し四徳神社と称したもの。当初は学校の雨天体操場の位置にあったが、昭和23年現在地へ移転した。諏訪明神は建保2(1214)年創立と伝わる(祭神は建御名方命)。祭神はそれぞれ、明神:建御名方命 山神:大山祇神 湯の宮権現:大巳貴命・少彦名命 浅間山:木花開耶姫命 秋葉森:火之迦具土命 津島森:素戔雄命 吉田森:天児屋根命。

 福泉寺は、常泉寺の末寺で、同寺の4代水山和尚を開山として寛永17年11月創立。本尊は聖観世音。当初は本久保と呼ばれる場所にあったが、山崩れのため現在地に移転した。昭和36年の豪雨により、堂宇が流された。

 

≪下村≫

写真1 路傍の地蔵と秋葉大権現

写真2 屋敷跡

写真3 墓地

写真4 屋敷跡の遺構(浴室)

写真5 墓地

写真6 屋敷跡
≪寺村≫

写真7 屋敷跡
※ 以下写真10まで、寺村と混同している可能性あり

写真8 屋敷跡

写真9 墓地

写真10 馬頭観世音

写真11 寺院跡にて。右は「曹洞宗福泉寺趾」の碑

写真12 堂宇跡? 中央は三界萬霊等(塔)。「文化三寅年」とある

写真13 境内の無縫塔
≪小河内≫

写真14 屋敷跡

写真15 屋敷跡?

写真16 屋敷跡
≪中村≫

写真17 学校跡


写真18 写真17にて。
「心のふるさと 四徳学校跡」の碑


写真19 墓地

写真20 屋敷跡

写真21 屋敷跡

写真22 神社。中央に社殿が見える。右は「災害移住記念碑」(昭和38年設置)、左は「平和碑」
≪大張≫

写真23 施設

写真24 墓地

写真25 屋敷跡

写真26 石造物群。庚申塔など

写真27 小祠と石造物群

写真28 墓地

写真29 墓地

写真30 屋敷跡
≪平鈴≫

写真31 「ふるさと平鈴」の碑(左)と道祖神(右)

写真32 屋敷跡?

写真33 屋敷跡

 

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