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◆四徳(しとく)
所在:中川村四徳
村の北東部、四徳川とその支流沿いにある。 訪問時は小地区の別(後述)や細かな住宅の位置を把握しておらず、移転後の航空写真のみを手がかりとして県道沿いを中心に探索をしたに留まった。 ・下村…小沢3・小松3・湯沢2、塩沢・高松・藤川各1(11戸) 資料『望郷・四徳の里』(引用する論文も含む)によると、概ね下流より、下村(しもむら)・寺村・小河内(おごうち)・中村・大張(おおばり)・平鈴(たいらすず)(※) の小地区に分かれる。中心の中村には、学校・神社。農協支所などがあった。 ※ 読みについては、下村・小河内は橋梁の銘板より(下村橋・小河内橋)。大張・平鈴は本文のルビより 以下は災害前の家々(屋号。表に記載された番号順)。なお地区の分け方が異なるのか、移住記念碑の戸数とは異なっている。 ・下村15戸(銭屋・はじめ屋・大下・志茂・下能徳・塩屋・大下垣外・勝城・釜鳴屋・中島屋・上仙・上橋詰・米垣外・下垣外・かじま) 寺村にあった寺院は寛永17(1640)年開山の曹洞宗長久山福泉寺で、大草の常泉寺の末寺であった。 昭和36年6月末、梅雨前線に伴う豪雨が発生。四徳では27日の午後が中心となった。 主な生業は養蚕・製炭・自給用の農業などであった。 四徳鉱泉は、集落に残されている古い文書等によると、起源は元亀元(1572)年。現在の湯ノ沢の山で草刈りをしていた農民の一人が、沢で水を飲もうとした際に硫黄臭のする源泉を発見したというもの。その後山の所有者が、当時この地方の支配者であった武田信玄より開湯の許可を得た。後年、支流にも硫黄泉が発見され、四徳鉱泉の全盛期には「下の湯」として利用され賑わった。 なお当地にあった学校は、中川東小学校四徳分校および中川東中学校四徳分校。 資料『南向村誌』によると、小学校は明治6年福泉寺に開設し、明治7年校名を三楽学校とした。明治22年南向尋常小学校の分教場となる。明治35年5月1日独立し、四徳尋常小学校となる。明治41年4月1日、南向尋常高等小学校の分教場となり、昭和33年に中川村となるまで分校として続いた。昭和33年8月、中川村が発足し中川東小学校四徳分校となる。昭和38年7月31日、最後まで残った児童1人が転出したため閉校。 四徳神社は、明治41年諏訪明神に七十五社・山神・湯の宮権現・浅間山・三ッ森(秋葉森・津島森・吉田森)を合祀し四徳神社と称したもの。当初は学校の雨天体操場の位置にあったが、昭和23年現在地へ移転した。諏訪明神は建保2(1214)年創立と伝わる(祭神は建御名方命)。祭神はそれぞれ、明神:建御名方命 山神:大山祇神 湯の宮権現:大巳貴命・少彦名命 浅間山:木花開耶姫命 秋葉森:火之迦具土命 津島森:素戔雄命 吉田森:天児屋根命。 福泉寺は、常泉寺の末寺で、同寺の4代水山和尚を開山として寛永17年11月創立。本尊は聖観世音。当初は本久保と呼ばれる場所にあったが、山崩れのため現在地に移転した。昭和36年の豪雨により、堂宇が流された。
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| ≪下村≫ | |
![]() 写真1 路傍の地蔵と秋葉大権現 |
![]() 写真2 屋敷跡 |
![]() 写真3 墓地 |
![]() 写真4 屋敷跡の遺構(浴室) |
![]() 写真5 墓地 |
![]() 写真6 屋敷跡 |
| ≪寺村≫ | |
![]() 写真7 屋敷跡 ※ 以下写真10まで、寺村と混同している可能性あり |
![]() 写真8 屋敷跡 |
![]() 写真9 墓地 |
![]() 写真10 馬頭観世音 |
![]() 写真11 寺院跡にて。右は「曹洞宗福泉寺趾」の碑 |
![]() 写真12 堂宇跡? 中央は三界萬霊等(塔)。「文化三寅年」とある |
![]() 写真13 境内の無縫塔 |
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| ≪小河内≫ | |
![]() 写真14 屋敷跡 |
![]() 写真15 屋敷跡? |
![]() 写真16 屋敷跡 |
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| ≪中村≫ | |
![]() 写真17 学校跡 |
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![]() 写真19 墓地 |
![]() 写真20 屋敷跡 |
![]() 写真21 屋敷跡 |
![]() 写真22 神社。中央に社殿が見える。右は「災害移住記念碑」(昭和38年設置)、左は「平和碑」 |
| ≪大張≫ | |
![]() 写真23 施設 |
![]() 写真24 墓地 |
![]() 写真25 屋敷跡 |
![]() 写真26 石造物群。庚申塔など |
![]() 写真27 小祠と石造物群 |
![]() 写真28 墓地 |
![]() 写真29 墓地 |
![]() 写真30 屋敷跡 |
| ≪平鈴≫ | |
![]() 写真31 「ふるさと平鈴」の碑(左)と道祖神(右) |
![]() 写真32 屋敷跡? |
![]() 写真33 屋敷跡 | |