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◆下笹又(しもささまた)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「荒島岳」(昭和22.3)を使用したものである

所在:大野市下笹又字上河原(かみがわら)ほか
地形図:中竜鉱山/荒島岳
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害、のちダム建設
標高:約340m
訪問:2012年11月

 

 旧西谷村の北部、真名(まな)川沿いにある。
 以下は市史および「角川」より集落に関する記述。

明治5年27戸156人、同44年21戸122人、大正9年31戸150人、昭和5年25戸132人、同30年23戸128人。昭和40年9月の集中豪雨により、一部の住民が移住開始。同41年真名川総合開発の一環として真名川ダム建設が決定し、間もなくすべての残存世帯が大野市などに移転
焼畑・植林・炭焼き・養蚕・紙漉きを生業としていた
神社に稲荷神社があったが、離村に伴い大野市下据(しもしがらみ)に創設した西谷神社に、他集落の神社とともに合祀された
道場(寺号のない仏教施設)は2箇所あり、いずれも浄土真宗
明治19年中島小学校笹又分教場設置。校区は上笹又・下笹又であった
が、同31年上笹又の児童は中島へ通学。同40年道路改修により中島への通学条件が改善され、廃止された
集落北にある笹又峠は、下笹又から木本(このもと)へ抜けるもの。難路ではあるが大野に出るには若生子を経由するよりも近いため、人馬が往来していたという。峠には地蔵菩薩が2体と石塔が置かれていたが、国道笹又橋の脇に移された
大字としての下笹又は近世の大野郡下笹俣村。明治22年西谷村(のち大野市)の大字となる

 また中島に展示されている集落の地図(昭和30年代)には、木戸口3・清水2・広瀬2・松浦2・安田2・秋田・木下・国本・鉱崎・杉本・関角・田中・土森・本田・山口・山下各1の計22戸が記されている。秋田氏は医院、一方の広瀬氏は馬車を取り扱っていたよう。関角氏は分教場の脇に居住があるが、同校の教員か。

 集落は水没を免れており、両岸の高みからは集落跡の平地や旧道などが確認できる。国道の坂之谷(さかのたに)橋の袂には「離郷記念萬霊之碑」(昭和44年建立)(写真4)があり、昭和40年の豪雨で離村したことが読み取れる。また離村者の名が列記してあり、これは先述の展示と同様(ただし広瀬氏の表記は「廣瀬」)。

 


(写真1 真名川ダム)

写真2 集落跡

写真3 集落跡。橋は坂之谷橋

写真4 碑

写真5 かつての集落風景(
中島にて)

 

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